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日常、考え事。たまに少し冒険。
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歴史より地理を、時間よりも空間を—(pp275)

 過去より未来は確実に良くて、産業化されていない地域=遅れた地域という直線的な思考でなく、地理に対応した地域の特徴を捉えること。

 社会福祉に、都市政策の視点を導入し、どのような効果があるのかを多面的に検証する内容。その切り口として、「コミュニティ」が取り上げられている。

 これまで分野横断的に物事を考えよう、としてきた著作は多いが、本書は「分野横断的」であることを、具体的に体現している点に読み応えがある。
私は建築・都市を専攻したので「建築・都市」の観点で目新しい観点は無いように感じたが、福祉や社会保障について空間的(建築・都市的)に発想すると、ここまで広がりのある議論が出来るのか、ととても勉強になった。

 各分野を学ぶにあたっての導入にもなる。良書。

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生活していて、問われることはほとんどないが、たまに問うと深刻な問題。
それが、「いかに暮らすか」ということ。

深刻なのは、「いかに暮らすか」という問いが、生活の糧をいかに確保するか、生活の豊かさとは何かという、生きる手法や価値観に突きつけられるものだからだ。

その問いに応えるヒントとなる2冊がある。
A:里山資本主義 藻谷浩介/NHK出版
B:社会をつくる自由 竹井隆人

A「里山資本主義」は、都市部から離れて、文明と接点を持ちつつも、自分の身の回りのことを自分で調達して生活することの豊かさを説く。
B「社会をつくる自由」は、都市部に数多く建つ分譲マンションの管理組合に着目し、生活に直結した中間組織を基軸に、人々が日常的に政治参加する社会を構想する。またその過程で人々が「市民」として自覚を持ち、成長していく過程を説く。

都市部に住むか、田舎に住むかという選択のヒントになるものではない。
生活の豊かさとはなにか、自分の生活をいかにつくっていくか、という生活スタイルを選択するヒントになるものだ。

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  いかに住まうか。
  いかに、住まいを選ぶか。いかに、住まいをつくるか。  
 これまで、「どこに」「いくらで」「nLDKで」「○㎡で」という与条件に従順に選択してきたし、特にそれで問題もなかった。少なくとも住宅の選び手としては。しかし、これからもそうだろうか?

 今、社会変化を見据え、「住む」ということに対し、アイディアを集積し、アーカイブしていく取り組みを行っていきたい、と考えている。
 これからの都市でもっと過ごしやすく、住みやすい住環境を手に入れるには、どのような住宅供給が望ましいのか。どのような住宅の選び方があるのか。どのようなマネジメントが有効なのか。身近な問題から、気軽なアイディアをたくさん集めて、大きな社会変化に順応できる準備がしたい。  

 例えば、「月5000円〜住めるアパートメント」とか「隣でたばこ吸ってても迷惑でないアパートメント」とかそんなのでも良い。今社会にある「住む方法」に足りない物を、もっと自覚しよう、というのが趣旨。

 これから、「他者と共存すること」「地域で暮らすこと」の意味を問いかけるような課題が、どんどん顕れてくるだろう。
 継続的に人口が減少して国力が落ちれば、今後、国策で移民の受け入れが積極化される可能性は高く、これまで経験したことののない民族多様性の時代が来ることが充分に考えられる。街に目を向ければ、持ち家の戸建て住宅がたくさん並んでいるけれど、可処分所得が減少する今後の世帯がローンを組み、その「所有」を続けることはできるのだろうか。自治体の経営が困窮する中で、今後も公園やインフラの管理は行き届くのだろうか。
 
 変化が起きたとき、僕らの居住地では何が起こるか。
 「外国人」が隣に住む、というだけで拒絶反応を起こす人も、相変わらず、いる。住宅の所有=居住でなくなれば、放置された空き家だって増える。公園が近くにあるからと住まいを選んだとしても、その公園は荒れ果てているかも知れない。

 現時点でも課題は山積している。

 しかし、「居住」に着目した取り組みは極めて少ない。「住むこと」以外に地域と接する理由がない人が多く、「地域に住んでいる」という共通項のみで、課題に取り組むことは、殆どの場合出来ないからだ。特に企業に雇用されるサラリーマンには地域社会の活動に積極的に参加するメリットも伝わりにくい。そして、こうした傾向がこのまま続けば、これまで地域の良好な住環境にフリーライドしてきたように、今度は自分にとって悪化した住環境に甘んじることになるのではないか。それは、引っ越した先でも同様で、良い住まいを選び取れない状況に陥ってしまうかも知れない。

 一方で、今ある、「居住地」に着目して、住み方を「地域ぐるみで変えていこう」というのは、自治会や町内会のような既存の組織の苦戦を目の当たりにするだけで、困難さは充分にわかる。困難に直面しない状況下で、危機感をもって生活できないのは多くの人にとって当然のことだ。だから私たちは、「その時」が来るまでに専門家として、準備する必要がある。しかし、住み方を具体的に提示して、共感を得ていくための知恵は、単発的には出ている物の、集約されている訳ではない。  

 そこで、具体的な「居住地」について様々議論する前段として、居住する知恵、「居住知」について、アーカイブをつくっていく必要があるんじゃないだろうか。 地域を特定しないアイディアをつくって集めておく。問題が顕在化する前に、知恵を集めておいて準備する。調査機関としてのシンクタンクと対比的に言うならば、アイディア・タンクともいえるような取り組みを、今からどんどん初めて行きたいと思っている。

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日常の、何でもない、ふつーのことを、大切に、丁寧に描いている、映画2作品。
こうした映画に共通しているのは、「生活音」を丁寧に拾っていること。

元気出したいときには、「ココニイルコト」
ちょっと自分を認めて、許したいときには「ツレがうつになりまして」
とっても共感でき、何回も観てしまう作品。

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 1840年生まれの、オディロン・ルドンの展覧会が、丸の内の三菱一号館美術館で開催されている。日本にある作品の大半は岐阜県立美術館にあるが(250点)、岐阜県立美術館が改装のため、ルドンの作品を133点選び、日本を巡回するらしい。

 その展覧会を、今日見てきた。面白い。1つはルドンの生涯における絵画の変遷。もう1つは象徴主義やシュールレアリスムとの連関。鑑賞しても、分析しても興味深い。随分長い時間(2時間半くらい)見ていた。

 ルドンは、初期には版画を描いていた。初期の作品は木炭で描いたもの、リトグラフで描いたものなど、「黒」の表現で画壇から評価を得ていた。一般に、解説ではこのように書かれているが、実際には人間の「顔」中でも特に「眼」への偏執は強烈だと思った。たとえば、デビュー作となる版画集、「夢の中で」の「Ⅰ.孵化」は植物のつぼみが人の顔。初期のリトグラフの作品を見ていて、ふと、水木しげるはルドンの画に着想を得てゲゲゲの鬼太郎の「目玉親父」を考えたのではないかと考えてしまった。

 この頃のルドンの作品は「幻想」とういう表現もされるけれど、当時の時代背景を反映させて、科学技術に対する深い関心がある。たとえば、「気球」はエディソンが開発した電球がモティーフだ。当時、電球は開発されたばかりで、フランスの街灯が電気式に切り替わり始めていた。植物への関心も深い。

 これまで、象徴主義やシュールレアリスムの表現は、(科学的)合理主義への単純な反発によって生まれた考え方だと思っていたが、話はそう単純ではなさそうだ。植物、心理、生物、などの自然科学からの着想が、表現に直結している。

 ルドンの表現は、年を重ね、リトグラフや木炭での黒を基調とした表現から、一転、油彩やパステルを用いた表現に変化していく。私がこの展覧会を見て最も感動したのが、油彩による表現である「オフィーリア」だった。光に包まれる人物がとても幻想的だが、「人間の精神」に、ルドンは関心があったのだと感じた。

 グラン・ブーケを三菱一号館美術館が収蔵すると言うことで、その作品も展示されていた。この大作はパステルによるもの。これには感動しなかった。大きいが。

 岐阜県立美術館の改装が終わったら、是非、全収蔵作品が観てみたい。

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放射性物質についての私的整理

 放射性物質による健康被害や許容被曝線量についての議論は、昨年3月以降、喧々諤々、ありとあらゆる自称「専門家」が多様な主張を繰り出し、分かりやすく明確な回答にはたどり着くことができない。そのため、安全/危険の「尺度」に対する日本国民の信頼は、きわめて低いと言える状況だと思う。ここ2日で、2冊の放射性物質についての著作を読んだ。家族の安心を最大限確保するための、行動指針に自信を持ちたかったからだ。

 なぜ、専門家間で、こうまで主張が入り乱れ、コンセンサスを得られないのか。その理由は、この2著作を読むと非常に明確にわかる。混乱の理由は、「放射線医療」と「放射線防護」で、学問的な思想がまったく異なるからだ。(建築の分野でたとえるなら、「建築計画」と「建築構造」の関係に近いのではないか、と個人的には思う。)

ざっくりと私の理解を述べると、
放射線医療:放射性物質が人体に与える影響についての医学
放射線防護:放射性物質の人体に対するリスクを軽減する医学

ということになる。
この2つは、似ているようで、真逆とも言えるほど異なる。そこで、1冊目の著作、

A:「中川恵一(2012)、放射線医が語る被爆と発がんの真実、ベスト新書」

を挙げる。本書の著者は、福島原子力発電所の事故以降、Twitter、ラジオ、テレビなどを通じ、放射線医療の専門家として、専門の立場から積極的に発言している。
 著者の主張はきわめて明確だ。それは、本書の帯にも書いてある通り「フクシマでがんは増えない」。その論理は、以下の通り。

 放射性物質を被爆した際のリスクは、低放射線量の場合、がんに限られる。がんは、細胞を複写した際に突然変異が生じ不死化したもの。突然変異の原因は様々であるが、その1つとして、放射線の被爆がある。年間放射線量が100ミリシーベルトを超えると、がんの発症率は0.5%増えるから、有害だと言える。しかし、100ミリシーベルト以下の低放射線量でがんが増えるデータはない。発がんリスクの多寡は、100ミリシーベルト以下の発がん確率に閾値があるかないか、という認識の違いにより、解釈が異なる。放射線防護の立場からは、安全側に立つ、「理念」のもと、「閾値が無い」ものとして、規制を組み立てようとする。国際的な機関でも、年間10ミリシーベルト以下では発がんのリスクは高まらない、としている。ここで他の発がんリスクに目を向けると、不規則な生活や、野菜不足、塩分の過剰摂取、運動不足(外出を控える)による発がんのリスクは、100ミリシーベルトの放射線被曝による発がんリスクと比肩する。したがって、放射性物質に対し過剰に恐れ、生活スタイルを変化させ(たとえば移住して)、口にする食物を制限することが人体・精神に与える影響の方が余程深刻なものになる。それは、チェルノブイリでの事故の際にきわめて厳しい規制により強制移住した結果、発がん以外の原因により、国民の平均寿命が極端に短くなっていることからもわかる。福島での事故による放射性物質で、がんは増えない。

 著者は、生活者の立場に立ち、放射線を恐れる行動により、精神を病み、生活の豊かさが失われていくことを危惧している。一言で表すならば、「病むまでに心配するほど、身体に影響のある線量では無い」と言い、過剰な防護に警鐘を鳴らす。
 A著作の著者、中川さんが紹介されていた、原爆の投下された広島は、現在、平均寿命が政令指定都市の中でトップクラス、という事実は新鮮だった。それは、戦後、充実した医療制度が関係者に提供されたからだ、という分析に共感できた。

一方、2冊目の著作での主張は全く違うものだ。

B:「児玉龍彦(2011)、内部被曝の真実、幻冬舎新書」

 本書の著者は、国会で政府の対応に「満身の怒り」を表明し、その様子がニュースやwebで広く取り上げられた。放射線防護の立場から、疫学的な証明には数十年単位の時間がかかる。今できることは、大量に放出された放射性物質の除染である、と主張する。つまり、「ある障害が放射性物質に起因すると証明するためには膨大な時間がかかる」と言い、今はとにかく除染するべき、と言っているのだ。
 その論理は以下の通り。福島での原発事故により、膨大な量の放射性物質が放出された。放出された放射線の総量に着目すると、雨や風、気候条件に応じ、流体的に放射性物質は濃度を変えるから、空間放射線量が「○ミリシーベルト」なら安全、という議論には意味がない。また、疫学的な証明には膨大な時間がかかる(たとえば、チェルノブイリは、放射性ヨウ素と子どもの甲状腺がんの因果関係が立証されるまでに20年かかり、立証される頃には発症そのものが終わっていた)ために、実測(疫学)ではなく、予測(シミュレーション)が必要となる。データが足りないからこそ、影響の予測が重要になる。医学的には放射性物質が与える影響について、議論はいくらでも続く(影響がない、という議論も含めて)が、それでは何の対策にもならない。だからこそ、まずは除染。

 一貫しているのは、「たとえ僅かでも、放射性物質が流出している事実に向き合いべきだ」というスタンスだ。本来浴びなくても良いはずの放射線を、政府や東電の責任で浴びさせられているのだ。誠意をもって除染にあたるのは当然だ、という主張。だからこそ、医学的にきわめて厳密に(難解なほどまでに)道筋を立て、政府に対応を求めているのだ。それは、政策的視点に立った、国民のための主張だ。

 A著作、B著作と、両者の言っていることは全く異なるが、実は全く矛盾しない。あくまで、立場の違いにより「異なっている」だけなのだと思う。両者とも、100ミリシーベルト以下の年間放射線被爆を、軽視していない。あくまで、用心するべきものとして著されている。強いて言えば、放射線医療(Aの著書)は身体、あるいは生活者の視点で考える立場。放射性防護(Bの著者)は国家、あるいは政策の視点で考える視点だと言えるのではないだろうか。A著作では医療の観点から、「人間」についてホリスティックに考えるが故に、心や生活の問題に行き着く。そのため、放射性物質と人体、という1対1の関係を超え、放射性物質と生活、とバランス型の論理になる。一方、B著作では、防護の観点から、放射性物質対人体、という関係性を厳密に捉えることで政策・施策を「安全に」整備し、運用していく、という論理になる。私は、どちらも正しいと思った。

 この2つの立場があることを踏まえ、私は、生活者としての行動の意思決定は、「放射線医療」で主張されていることを採る(少なくとも、放射性ヨウ素とセシウムについては理解が深まった)。がんに着目するならば、私は放射性物質よりも高い発がんリスクにさらされて生きている。短い睡眠、朝食抜き、たばこの副流煙、など挙げればきりが無い。そんな中、放射性物質にのみ着目して行動を制限していくのはあまりに非合理だからだ。それは、自分の家族にも同様だと考える。
 一方、我が国の規制や、福島県をはじめとした地域の復興・除染には、当事者が勝手に線を引いて補償の範囲を決めるのではなく、放射線防護の観点で、客観的・徹底的に取り組んでいくべきだ、という考えを採る。これは、有権者としての判断になる。

 こう書くと、「生活者」と「有権者」のダブルスタンダードで生きているような印象を持たれそうだが、これは、議論の対象に応じて、自らの考えも柔軟に対応させていこう、という意思表示にすぎない。重要なのは、生活を指向する医療の観点で、政策を決めないこと。政策を裏付ける防護の観点で、生活を翻弄されないこと。の2点ではないか。

 これからも、両者の立場それぞれに、意見や情報の提供があるものと思う。注目して、追っていきたい、と思う。


   

【余談1】
 1つ気になるのは、放射性物質の有害/無害の線引きさえきちんと理解しにくい状況で、大手マスメディアは3月以降、相当に早いタイミングで「風評被害」という言葉を使い、福島の被害を表現してきた。言葉の要旨に照らして考えると、「放射性物質による実害はないはずなのに、あるものとして社会は振る舞っている」ということになるが、放射性物質に対する恐怖感を非合理的に煽るコメンテーターも多かった。矛盾している。大半は当事者である東電や政府を批判する論調からだが、そうした浅はかな発言が混乱を助長している印象がある。大手マスメディアの中でも、「放射線医療」と「放射線防護」の立場の違いが理解できていなかったのではないか。表現内容に関して言えば、webと変わらぬほど、テレビも危うい。

【余談2】
頻繁にニュースなどで出てくる表現に、私なりの解釈をつけてみた↓
「ただちに健康に影響はない」≒低放射線量なので放射線障害は出ないが、将来的な発がんリスクはある。
ものは言いよう、ニュースの言葉には気をつけよう。

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  今は昔、docomoが携帯電話を世に放ってから今までに、携帯電話は爆発的に普及し、端末も、小型化・多機能化と進化を遂げてきた。高校に入学した当初、友人が「カラー液晶」で「(着信音が)3和音」という端末を持ってきたときの衝撃は今でも鮮明に覚えている(たしか、J-PHONE)。今ではそのような端末は化石だ。おそらくその友人も、自分がそのような端末を使っていたことさえ覚えていないだろう。その後、携帯電話は「ケータイ」と抽象化されるまでにその機能を多様化させた。カメラの画素数が向上し、ラジオが聴けるようになった。音楽が聴ける端末が登場したかと思えば、すぐにワンセグTVが見られる端末も登場した。3和音で感動していた音楽は、4和音、16和音、64和音と音の数が増え、スピーカーが搭載されたことで、まさに「音楽」となった。着うたの登場だ。今となっては、3和音の携帯電話で、YMOの「東風」や「RYDEEN」の音符をコードで入力し、遊んでいたことが本当に懐かしい。着信音を自分で作曲できる機能は、携帯電話からいつの間にか無くなった。16和音を超えたあたりから、そういった遊びを断念し、着目しなくなっていた。得るものも多かったが、先述の作曲機能のように、失ったものもあった。

 そして、「ケータイ」は「スマートフォン」に進化した。iphoneの登場だ。端末の多機能化は複雑化を極めた。これを「これを持っていれば、何でもできる」という安心感もあったが、一方で、「すべての機能が中途半端」というジレンマもあった。カメラの画素数は向上し、綺麗な画を撮れるようにはなったが、デジカメには及ばない(ほとんどデジカメ、というようなコンセプトの端末も存在するが)。WEBも、twitterやfacebookで短くつぶやく程度であれば差し支えないが、入力は面倒で、思考のスピードにはついてこない。ブラウジングの快適さにも限界がある。スマートフォンによって、生活に必要なすべての「通信」にまつわる機能を手に入れた、と思っていると、「すべてを中途半端に妥協する」危険だってあるのでは無いだろうか。

 世に出回っている、端末は、「多機能」という、「単調」に陥った。ユーザーのライフスタイルに合わせて、どの機能が欲しくて、どの機能は不要、といった選択肢は少ない。どのように、WEBを生活に取り込むか。どのような機能を、端末に求めているか。「スマートフォン」には、そうした個別のニーズに応える用意が無い。

 私は、2009年から、iphoneを使ってきた。家ではwi-fi、外では3G回線でWEBに接続。便利なアプリも入れ、快適に使っていた。しかし、スマートフォンを、キャリアの通信で使うと、ランニングコストは割高だ。その割には、通信速度も遅く、得るものが少ない。iphoneでは当然、まとまった文章の入力に不向きだし、バッテリー切れで通話ができなくなる恐れもある。外付けのバッテリー、という苦肉の策もあるが、スマートじゃ無い。iphoneを使い続ける、私にとっての意味って何だろう?Appleの製品としては、愛着もあるんだけれど。

 私が至った結論は、「持って歩くは無線LAN」というものだ。モバイルwi-fiルーターによって端末をWEBにつなぐ。日によって、iphoneのみ持ち歩くこともあれば、macbookを持ち歩くこともある、という使い方には最適だと考えた。通話は、通話専用の端末。まさに「携帯電話」だ。iphoneを通話に使う必要は必ずしも無い。

 今日、iphoneを解約し、WILLCOMの通話専用の端末と、モバイルwi-fiルーターを契約してきた。家族で使うことも考えると、目を見張るコストダウンになったが、私のWEBとのつながりはむしろ可能性を広めた。iphoneと、macbookを、モバイルwi-fiルーターでWEBにつなげる環境ができた。鞄の中にwi-fiルーターを入れっぱなしにし、通話専用の端末を持つ。iphoneから、通話の機能を無くし、ipodtouchのような使い方をしようとしている。製品開発の流れから見れば逆行だが、私にとっては進展だった。持ち歩く端末の「数」は増えるが、ほとんどが鞄に入れっぱなしになる類いのもので、管理にかかる手間も無い。むしろ、「使う機能」のオン/オフの選択が恣意的にできることがいい。



 将来的に、端末の基本性能(バッテリーなど)がより向上すれば、モバイルwi-fiルーターによってIP電話として使うことにもなるかもしれない。モバイルwi-fiルーターを持ち歩くことで、これからできる「WEB行為」は飛躍的に増え、選択肢が向上する。こうして、端末の機能に依存するWEBとのつながりから、自分で選び取っていくWEBとのつながりに、更新することができたと思っている。家計にもすごく優しい。

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お金によって叶う夢、一方で壊れていくもの。その、お金の力をわかっていて、控えめに生きる人、進んで壊れていく人、競う人が、重奏的に描かれている。


 お金で得ることができること、お金だけでは得ることが難しいこと。淡々とした言葉の応酬で物語は進む。
 言葉は最小。物語は、お金のやりとりを中心に描かれる。出すものによって物語は進行し、描かれる。

 こうした即物的なやりとりで、人間を描く映画は、初めて観た。



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 天地明察を読んでから、世界の数学的偉人に興味が沸いてきた。
 
 NHKに、「数学者列伝」という全8回の特集が過去に組まれていたようで、それを偶然 youtubeで発見した。非常に面白い内容だ。数学の、具体的な内容や、成果というよりは、数学者の数奇な人生を明るみに出していく試みだ。

 第1回は、「アイザック・ニュートン」。その回と、天地明察にも登場する、「関孝和」の回を対比的に観ると大変面白い。それは、日本の和算と、西欧の数学の発展過程や、その終着点の差が、なぜあるのか、という点だ。

 言うまでも無く、西欧文明を形つくる基盤になる宗教は、キリスト教だ。神が世界をつくった、というもの。ニュートンは、神がつくった世界は、数学的な原理によってつくられているハズ、という、壮大な思い込みを持っている。一方、関孝和を代表とする我が国の和算家には、そうした「全体性」がない。それ故に、宇宙に対する考察や、原理に関しての考察が及ばなかった。「思い込みの違い」が、数学の終着点に大きな違いを生んだ。

 数学は、思想や宗教と距離のあるようなものとして捉えるのがほとんどだが、実は、学者のもつ思想や宗教が、仮説に重要な影響を与えていたことは、事実として非常に興味深い。研究における、仮説の重要性を示している。

 ここで書いたようなことも、思い込みかもしれないが。


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 本書は安井算哲、保井算哲、渋川春海、という3つの名を使い分ける人物の、「改暦」にまつわる物語。
 宣明歴という、800年来続いてきた暦に、2日というズレが生じている。この暦を改め、新しい暦をつくる、という国家プロジェクトのドキュメンタリーだ。政治・宗教・経済とあらゆる面に多大な影響力をもつ暦を改める。プロジェクトに立ち向かっていく姿を映す、きわめて現代的なテーマと思う。 時代は、戦国の世を終え、天下泰平の世に向かいつつあった。渋川春海が20代前半の頃から没するまでが描かれている。

『安井算哲・・・お主、本日が実は明後日であると聞いてどう思う?』

物語中出てくる問いだ。 
 800年で2日のズレ。これを大きいとみるか、小さいとみるか、一般的な感覚ではとても判断がつかない。暦がずれるだけで、今日が明後日になる。暦の上では明後日だが、身体は今日を生きている。わかりにくい。
 実は、このズレが「問題になる」ということが、時代背景なのではないか。もちろん、同時代、暦は世界中で調整がされていたし、日時を正確に刻んでいくことは、人類にとって重要なことだ。だが、現代社会では、「暦の上では春です」と言われて、その日に衣替えを断行するわけではないし、何か行事があるわけでも無い。その気になれば暦(≒カレンダー)はPCで簡単に作れるし(グレゴリオ暦)、それが政治・経済・宗教に大きな影響を及ぼすとは考えにくい。

 一方、渋川春海は暦について、下記のように表現している。

 暦は約束だった。泰平の世における無言の誓いと言って良かった。“明日も生きている”“明日もこの世はある”。天地において為政者が、人と人とが、暗黙のうちに交わすそうした約束が暦なのだ。(pp.7)

 暦という、「社会的な合意」によって、天下の泰平を盤石なものに。改暦だけで天下泰平がなるわけでは、もちろん無い。しかし、改暦がどのように社会に影響を与え、なぜ国家プロジェクトたり得るのか。それを、本書で読んで欲しい。最後の100ページは、本当に息がつけなかった。算術オタクが、その極みにおいて暦を改める、というところにとどまる物語ではない。  

 また、保科正之や水戸光圀など時の権力者とのやりとりは、視点が庶民(?)的であるだけに入り込みやすい。時代背景がすんなり理解できる。同時代に生き、交流のあった関孝和などの、稀代の数学者も出てくる。ニュートンやライプニッツに先駆け、いくつかの数学的発見を成した人物だ。時の、偉大な人物が織りなす一大事業。渾天儀、天文分野之図など、渋川春海の歴史に名を成す成果も物語にちりばめられている。

 時間を、過去・現代・未来をいう、一軸的な、不可逆的なものでなく、「 原理・原則」として理解しようとした試みが改暦。あるいは、過去・現代・未来をしっかり刻んでいくための「法則」を確立した改暦。いずれにしても、良い本に出会えた。

 すでに漫画化されており、今秋、映画も公開されるとのこと。楽しみ。

 

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プロフィール
HN:
わぎゅう
性別:
男性
自己紹介:
仏像、恐竜、文房具。振り返れば多趣味。いや、趣味ではなく、真剣なのだ。それが問題。ジャンル問わず展覧会に興味あり。
一級建築士。工学修士。ユーザーの視点から建築・都市を考え企画するのがライフワークです。
https://twitter.com/wagyoo

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