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日常、考え事。たまに少し冒険。
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歴史より地理を、時間よりも空間を—(pp275)

 過去より未来は確実に良くて、産業化されていない地域=遅れた地域という直線的な思考でなく、地理に対応した地域の特徴を捉えること。

 社会福祉に、都市政策の視点を導入し、どのような効果があるのかを多面的に検証する内容。その切り口として、「コミュニティ」が取り上げられている。

 これまで分野横断的に物事を考えよう、としてきた著作は多いが、本書は「分野横断的」であることを、具体的に体現している点に読み応えがある。
私は建築・都市を専攻したので「建築・都市」の観点で目新しい観点は無いように感じたが、福祉や社会保障について空間的(建築・都市的)に発想すると、ここまで広がりのある議論が出来るのか、ととても勉強になった。

 各分野を学ぶにあたっての導入にもなる。良書。

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生活していて、問われることはほとんどないが、たまに問うと深刻な問題。
それが、「いかに暮らすか」ということ。

深刻なのは、「いかに暮らすか」という問いが、生活の糧をいかに確保するか、生活の豊かさとは何かという、生きる手法や価値観に突きつけられるものだからだ。

その問いに応えるヒントとなる2冊がある。
A:里山資本主義 藻谷浩介/NHK出版
B:社会をつくる自由 竹井隆人

A「里山資本主義」は、都市部から離れて、文明と接点を持ちつつも、自分の身の回りのことを自分で調達して生活することの豊かさを説く。
B「社会をつくる自由」は、都市部に数多く建つ分譲マンションの管理組合に着目し、生活に直結した中間組織を基軸に、人々が日常的に政治参加する社会を構想する。またその過程で人々が「市民」として自覚を持ち、成長していく過程を説く。

都市部に住むか、田舎に住むかという選択のヒントになるものではない。
生活の豊かさとはなにか、自分の生活をいかにつくっていくか、という生活スタイルを選択するヒントになるものだ。

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  いかに住まうか。
  いかに、住まいを選ぶか。いかに、住まいをつくるか。  
 これまで、「どこに」「いくらで」「nLDKで」「○㎡で」という与条件に従順に選択してきたし、特にそれで問題もなかった。少なくとも住宅の選び手としては。しかし、これからもそうだろうか?

 今、社会変化を見据え、「住む」ということに対し、アイディアを集積し、アーカイブしていく取り組みを行っていきたい、と考えている。
 これからの都市でもっと過ごしやすく、住みやすい住環境を手に入れるには、どのような住宅供給が望ましいのか。どのような住宅の選び方があるのか。どのようなマネジメントが有効なのか。身近な問題から、気軽なアイディアをたくさん集めて、大きな社会変化に順応できる準備がしたい。  

 例えば、「月5000円〜住めるアパートメント」とか「隣でたばこ吸ってても迷惑でないアパートメント」とかそんなのでも良い。今社会にある「住む方法」に足りない物を、もっと自覚しよう、というのが趣旨。

 これから、「他者と共存すること」「地域で暮らすこと」の意味を問いかけるような課題が、どんどん顕れてくるだろう。
 継続的に人口が減少して国力が落ちれば、今後、国策で移民の受け入れが積極化される可能性は高く、これまで経験したことののない民族多様性の時代が来ることが充分に考えられる。街に目を向ければ、持ち家の戸建て住宅がたくさん並んでいるけれど、可処分所得が減少する今後の世帯がローンを組み、その「所有」を続けることはできるのだろうか。自治体の経営が困窮する中で、今後も公園やインフラの管理は行き届くのだろうか。
 
 変化が起きたとき、僕らの居住地では何が起こるか。
 「外国人」が隣に住む、というだけで拒絶反応を起こす人も、相変わらず、いる。住宅の所有=居住でなくなれば、放置された空き家だって増える。公園が近くにあるからと住まいを選んだとしても、その公園は荒れ果てているかも知れない。

 現時点でも課題は山積している。

 しかし、「居住」に着目した取り組みは極めて少ない。「住むこと」以外に地域と接する理由がない人が多く、「地域に住んでいる」という共通項のみで、課題に取り組むことは、殆どの場合出来ないからだ。特に企業に雇用されるサラリーマンには地域社会の活動に積極的に参加するメリットも伝わりにくい。そして、こうした傾向がこのまま続けば、これまで地域の良好な住環境にフリーライドしてきたように、今度は自分にとって悪化した住環境に甘んじることになるのではないか。それは、引っ越した先でも同様で、良い住まいを選び取れない状況に陥ってしまうかも知れない。

 一方で、今ある、「居住地」に着目して、住み方を「地域ぐるみで変えていこう」というのは、自治会や町内会のような既存の組織の苦戦を目の当たりにするだけで、困難さは充分にわかる。困難に直面しない状況下で、危機感をもって生活できないのは多くの人にとって当然のことだ。だから私たちは、「その時」が来るまでに専門家として、準備する必要がある。しかし、住み方を具体的に提示して、共感を得ていくための知恵は、単発的には出ている物の、集約されている訳ではない。  

 そこで、具体的な「居住地」について様々議論する前段として、居住する知恵、「居住知」について、アーカイブをつくっていく必要があるんじゃないだろうか。 地域を特定しないアイディアをつくって集めておく。問題が顕在化する前に、知恵を集めておいて準備する。調査機関としてのシンクタンクと対比的に言うならば、アイディア・タンクともいえるような取り組みを、今からどんどん初めて行きたいと思っている。

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まだ読んでいない本がある。
改めて、これから読み直そう。

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訃報:林昌二さん83歳=パレスサイドビル設計
 オフィスビル建築の第一人者で、毎日新聞東京本社があるパレスサイドビルなどを設計した建築家の林昌二(はやし・しょうじ)さんが11月30日、東京都内で死去した。83歳。
 東京工大卒。1953年、大手設計会社の日建設計に入社。設計を手掛け、66年に完成したパレスサイドビル(東京都千代田区)は、両端にそびえる2本の円柱(エレベーター棟)と、横200メートルのガラス張り壁面に縦横に走る雨樋(あまどい)やひさしが特徴。機能的でありながら快適な空間を実現させて、モダニズム建築の名作とされている。
 71年にはポーラ五反田ビルで日本建築学会作品賞を受賞。その後も、中野サンプラザ(73年)、新宿NSビル(82年)などの大型建築を次々と設計。限られた予算や時間内で資材などを工夫し、豊かな空間を作り上げる手法は「貧困の美学」と呼ばれた。
 80年に日建設計副社長に就任し、のち名誉顧問。日本建築家協会会長などを歴任した。妻は建築家の故・林雅子さん。
毎日新聞 2011年12月2日 2時30分(最終更新 12月2日 9時20分)http://mainichi.jp/select/person/news/20111202k0000m040124000c.html


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「二十二世紀を設計する」「建築に失敗する方法」の2作を高校生のころ読んだ。
気楽だが、厳しい文章にアッという間に魅せられたのを今でもよく覚えている。




   

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都市には、多くの人が住んでいる。
人間の体の大きさから考えると、自然界では考えられない密度で生活している。 ある試算によると、人間の体の大きさだと、サイズから予測される密度の、230倍の密度で生活しているようだ(密度)。逆に、同じ密度で生活している生物のサイズは、140g程度とのことで、こうした自然法則への背理を、社会性というあたらしい自然法則で補っているのが人類といえる。

それが故に、都市には、多くの怒りがある。
電車の駅構内、人混みに苛立ったり、非常識な他人の行動が目に付いたりする。
ごみの出し方がいい加減で、住んでいる場所が汚れているのを見てがっかりする。
近所のオーディオが五月蠅い。
隣で家つくってるんだけど、窓が正面に向き合ってて視線が筒抜けだ。
こんな静かな住宅街に、あんな大きいマンションなんてつくるな。

人口の大部分が都市に集まって住んでいる日本では、その分、人の「怒り」も集まることになる。その怒りの原因は、関わりの無い他者であったり、隣人であったり、時には都市で起こる数々の出来事による怒りもあり複雑だ。
原因がこのように多様なのだから、怒りの矛先も当然多様化する。個人であり、企業であり、役所であり、建築であり、都市のインフラであることもあるだろう。
このように、都市では「怒り」が顕在化しうる局面が計り知れないほど多く、駅での暴力事件や、住宅街でのマンション反対運動など、怒りの表現方法も多様だ。 もちろん、顕在化しない(させない)「怒り」の方が圧倒的に多くいが、ここでは、筆者が「怒り三部作」とした書籍を参考に、顕在化している「怒り現象」を通じ、都市における「怒り」について考えてみたい。

「怒り三部作」
1:辛淑玉、「怒りの方法」、2004、岩波新書
2:セネカ 著、茂手木元蔵 訳、「怒りについて」、1980、岩波文庫
3:ダライ・ラマ14世、「ゆるす言葉」、2008、イースト・プレス

■「怒り」の表現方法
「苛立ち」と「怒り」は同じか?
怒りが、明確な利害に基づいている一方、苛立ちとは、本人も明確には原因が分からず、漠然としている。苛立ちが、怒りの原因になり、怒りが、苛立ちを誘発することが充分あり得るなら、両者は相互補完の関係にあるだろう。
苛立ちは、その本人が積極的には表現していない。周りが読み取ったり、本人が感じたりしているだけだ。しかし怒りは、その論理を他人に向けて発信することであり、苛立ちと異なり、表現への意思がある。

では、怒りはどのように表現されているか。 都市で「怒り」が表現されるときは、明確な論理と、それを相手に伝える意思がある。「都市の怒り」には明確な利害が絡んでいるためだ。それが故に、都市での「怒り」の表現は、社会的なメッセージになるのだ。さらに、怒りの表現は、個人でなく集団となることも多い。政治的なものではデモ、生活圏での問題は住民運動のように、集団行動の様相も多様だ。 それは、怒りではなく「主張」である場合も多いだろうが、「主張」を、「怒り」にように表現している場合も多いのではないか。ここで取り上げているのは、「主張」のなかの、「怒り」の側面である。

辛淑玉氏は、著書「怒りの方法」のなかで、怒りを大きく5つのグループに分けている。その5つとは、「噴火型」「イヤミ型」「放火型」「玄関マット型」「問題解決型」だ。ここで、都市の怒りに該当するのは、「自分では怒りを表現せずに、周りを焚きつけて起こらせるパターン」(pp.44)の「放火型」と、「怒りの素をを見つけ、すばやく対処するパターン」(pp.46)の「問題解決型」の2つの怒りの形式だろう。

■「怒り」の背景―都市建築の問題
都市生活で享受できる権利を主張し、それを怒りとして表現する。日常生活での苛立ちから、都市へ怒りを表現するに至るまで、生活は連続している。日常蓄積される怒りが、大きな怒りにつながることも起こりうるのではないか。
ローマ時代の哲学者で、皇帝ネロの補佐人として著名なセネカは、著作「怒りについて」の中で多数の状況を想定した上で、「怒りは束縛されない奔放なものである」とし、また「自分の親しいものの為に怒るのは、深い愛情のしるしではなく、小心のしるしである」とし、怒りを活用した主張の強化や、毒を以て毒を制す考え方に疑義を呈している。セネカの主張の核心は、「怒り」とは本来的に奔放で、理性によって制御できるものではなく、制御できる場合には、恐怖心など別の利害が働いている、と言うもので、いかなる場合も怒りに身を委ねる事を許さない。セネカの言葉に代表されるように、多くの人にとって、怒りが心地よい感情ではない以上、「都市の怒り」を考える場合、都市の側に、人を怒らせる何らかの原因があると考えられる。

その、原因とは何か。
それは多岐に渡るためここでは詳らかには出来ないが、こうした認識は重要だと考える。都市で多様に表現されている「怒り」は、日常生活で蓄積されている怒りの結果なのだ、と。

■「許し」は如何に可能か
「許さない都市」の事例が、アメリカにある。
ゲーテッド・コミュニティだ。各所で紹介されているが、住宅地を塀で囲み、施設警官で守る。都市であるが故に起こりうる「怒り」を最小限にしている。彼らは、一般的な都市を拒絶し、感じうる「怒り」を排除する、「許さない都市」に住んでいる。 一方で、彼らの暮らすコミュニティにも隣人はいる訳で、「怒り」の種はあるはずだし、実際、増築の方法や外壁の色彩についてもめ事があり、退去せざるを得ないところまで追い込まれている事例もある。その意味で、「許さない都市」≒「闘う都市」とも言える。

では、彼らは何を条件に隣人がいること、すなわち居住地が都市であることを許しているのか。それは、隣人のステータスだ。安心できる、同じように裕福な人が住むのであれば、という条件だ。また、建築や道路など、都市形態にも多く口を出し、生活圏を「選んだもの」としている。これは、怒りの拒絶であり、排除だ。 ダライ・ラマ14世は、著書「ゆるす言葉」の中で、「(前略)見知らぬ無数の人々の親切がなかったら、これらのどれひとつとして存在せず、享受することも利用することもできないのです。」とし、排除への批判的な考えを明らかにしている。
都市を、他者の存在を、感謝し、都市への怒りを、「許す」にはどうしたらよいのか。
ここに、技術者・企画者の提案の力量が問われている。
建築・都市に、「技術」の側面から関わる立場の者として、日常生活への「喜び」を感じる事が出来るような具体的な提案を、行っていかなければならない、と、思いを強くした。

そのためにも、現在、社会で表現されている「都市の怒り」に知悉し、それを日常生活のレベルにまでさかのぼって考える。その上で、「許し」が可能な環境をつくるには何が必要なのか考える必要があるだろう。




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学生の時、マンホールを活かした都市がつくれるはずだと、提案したことがあります。
だから、マンホールには今でも結構思い入れがあって、この本に はかなり興味が。
Drainspotting: Japanese Manhole Covers

アーティストは、Remo Camerota。
http://www.whitewallstudios.co.nr/

近日発売みたいです。
変わったマンホール集、と言う趣が強いようです。



タイトルにあるように、マンホールは面白い。
そう思うのは、2つの考えがあるからです。

浄化施設の都市分散化に活かせる。
現在、都市部の下水の浄化は、下水管を通って、浄化施設で浄化され、放流されています。
そのため、大型の施設が必要になり、しばしば建設位置で問題になります。

あ、ちなみに、格好いいデザインの浄化施設を見つけました(海外)。
http://www.archdaily.com/60651/ad-round-up-industrial-architecture-part-iii/
↑上から5番目の写真。

都市の周辺部で、下水を集中処理するのは、災害時に破損すると都市全体に影響が出たり、建設位置を巡って、近隣住民と行政の対立したりと、課題があると思ます。
そこで、下水管を流れる水をマンホールの縦穴を利用して、浄化すれば良いんじゃないかというのが提案です。
これが展開されれば、緊急時においては、火災の消化や、災害時の(浄水器を使う)飲料水確保に活かす事が出来ます。また、日常的にも、公衆便所をビルトインしたり(たしかイギリスで実例有り)、街路樹の給水に使えたりするでしょう。

都市のサイン・デザインに活かせる。
マンホールは、下水管が埋設されている都市では、点検の為にそこかしこに設置されています。
そのマンホールを、近くのお店を紹介したり、見所(歴史とか)やお得情報、地下鉄の時刻表などを記載して活用するのです。便利だし、意外な場所にあるものだから、とても楽しいと思います。

一方で、街を歩いていて、その街のことなんて全然分かりません。スマートフォンの進化でだいぶ条件は改善されていますが、もっとダイレクトに、五感で体感できるような場所に、楽しいディスプレイがあると良いと思うことは、ありませんか。
(浄化した水に水生生物を入れて、街中水族館!とか良いな。)


冒頭で触れた本のように、現在マンホールにはあらゆるデザインがあります。しかし、マンホールのふた、と言う表面は、「点検の為に必要」というように活用されることを前提としない、ネガティブなものです。活かしましょうよ。
ここで提案したもの以外にも、マンホールには効果的な使い方があると思います。
考えてみると普段見慣れた街が違った角度で見られて良いかも。




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グローバリゼーション考。

グローバリぜーションとは、単一民族あるいは国家が世界にボーダーレスに進出することではなく、地域の中にあらゆる民族・人種が混在している状況のことを指す、と考えるべきなのではないか。


広く世界に出て行く事を、「グローバル」な活動、と表現することが多いが、実は、身近な環境が多国籍化していくことが本質的な意味での「グローバリゼーション」なのではないか。
逆説的だけれど、身近な事が多様化していくことをグローバル、と考えたい。

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性別:
男性
自己紹介:
仏像、恐竜、文房具。振り返れば多趣味。いや、趣味ではなく、真剣なのだ。それが問題。ジャンル問わず展覧会に興味あり。
一級建築士。工学修士。ユーザーの視点から建築・都市を考え企画するのがライフワークです。
https://twitter.com/wagyoo

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