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日常、考え事。たまに少し冒険。
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都市には、多くの人が住んでいる。
人間の体の大きさから考えると、自然界では考えられない密度で生活している。 ある試算によると、人間の体の大きさだと、サイズから予測される密度の、230倍の密度で生活しているようだ(密度)。逆に、同じ密度で生活している生物のサイズは、140g程度とのことで、こうした自然法則への背理を、社会性というあたらしい自然法則で補っているのが人類といえる。

それが故に、都市には、多くの怒りがある。
電車の駅構内、人混みに苛立ったり、非常識な他人の行動が目に付いたりする。
ごみの出し方がいい加減で、住んでいる場所が汚れているのを見てがっかりする。
近所のオーディオが五月蠅い。
隣で家つくってるんだけど、窓が正面に向き合ってて視線が筒抜けだ。
こんな静かな住宅街に、あんな大きいマンションなんてつくるな。

人口の大部分が都市に集まって住んでいる日本では、その分、人の「怒り」も集まることになる。その怒りの原因は、関わりの無い他者であったり、隣人であったり、時には都市で起こる数々の出来事による怒りもあり複雑だ。
原因がこのように多様なのだから、怒りの矛先も当然多様化する。個人であり、企業であり、役所であり、建築であり、都市のインフラであることもあるだろう。
このように、都市では「怒り」が顕在化しうる局面が計り知れないほど多く、駅での暴力事件や、住宅街でのマンション反対運動など、怒りの表現方法も多様だ。 もちろん、顕在化しない(させない)「怒り」の方が圧倒的に多くいが、ここでは、筆者が「怒り三部作」とした書籍を参考に、顕在化している「怒り現象」を通じ、都市における「怒り」について考えてみたい。

「怒り三部作」
1:辛淑玉、「怒りの方法」、2004、岩波新書
2:セネカ 著、茂手木元蔵 訳、「怒りについて」、1980、岩波文庫
3:ダライ・ラマ14世、「ゆるす言葉」、2008、イースト・プレス

■「怒り」の表現方法
「苛立ち」と「怒り」は同じか?
怒りが、明確な利害に基づいている一方、苛立ちとは、本人も明確には原因が分からず、漠然としている。苛立ちが、怒りの原因になり、怒りが、苛立ちを誘発することが充分あり得るなら、両者は相互補完の関係にあるだろう。
苛立ちは、その本人が積極的には表現していない。周りが読み取ったり、本人が感じたりしているだけだ。しかし怒りは、その論理を他人に向けて発信することであり、苛立ちと異なり、表現への意思がある。

では、怒りはどのように表現されているか。 都市で「怒り」が表現されるときは、明確な論理と、それを相手に伝える意思がある。「都市の怒り」には明確な利害が絡んでいるためだ。それが故に、都市での「怒り」の表現は、社会的なメッセージになるのだ。さらに、怒りの表現は、個人でなく集団となることも多い。政治的なものではデモ、生活圏での問題は住民運動のように、集団行動の様相も多様だ。 それは、怒りではなく「主張」である場合も多いだろうが、「主張」を、「怒り」にように表現している場合も多いのではないか。ここで取り上げているのは、「主張」のなかの、「怒り」の側面である。

辛淑玉氏は、著書「怒りの方法」のなかで、怒りを大きく5つのグループに分けている。その5つとは、「噴火型」「イヤミ型」「放火型」「玄関マット型」「問題解決型」だ。ここで、都市の怒りに該当するのは、「自分では怒りを表現せずに、周りを焚きつけて起こらせるパターン」(pp.44)の「放火型」と、「怒りの素をを見つけ、すばやく対処するパターン」(pp.46)の「問題解決型」の2つの怒りの形式だろう。

■「怒り」の背景―都市建築の問題
都市生活で享受できる権利を主張し、それを怒りとして表現する。日常生活での苛立ちから、都市へ怒りを表現するに至るまで、生活は連続している。日常蓄積される怒りが、大きな怒りにつながることも起こりうるのではないか。
ローマ時代の哲学者で、皇帝ネロの補佐人として著名なセネカは、著作「怒りについて」の中で多数の状況を想定した上で、「怒りは束縛されない奔放なものである」とし、また「自分の親しいものの為に怒るのは、深い愛情のしるしではなく、小心のしるしである」とし、怒りを活用した主張の強化や、毒を以て毒を制す考え方に疑義を呈している。セネカの主張の核心は、「怒り」とは本来的に奔放で、理性によって制御できるものではなく、制御できる場合には、恐怖心など別の利害が働いている、と言うもので、いかなる場合も怒りに身を委ねる事を許さない。セネカの言葉に代表されるように、多くの人にとって、怒りが心地よい感情ではない以上、「都市の怒り」を考える場合、都市の側に、人を怒らせる何らかの原因があると考えられる。

その、原因とは何か。
それは多岐に渡るためここでは詳らかには出来ないが、こうした認識は重要だと考える。都市で多様に表現されている「怒り」は、日常生活で蓄積されている怒りの結果なのだ、と。

■「許し」は如何に可能か
「許さない都市」の事例が、アメリカにある。
ゲーテッド・コミュニティだ。各所で紹介されているが、住宅地を塀で囲み、施設警官で守る。都市であるが故に起こりうる「怒り」を最小限にしている。彼らは、一般的な都市を拒絶し、感じうる「怒り」を排除する、「許さない都市」に住んでいる。 一方で、彼らの暮らすコミュニティにも隣人はいる訳で、「怒り」の種はあるはずだし、実際、増築の方法や外壁の色彩についてもめ事があり、退去せざるを得ないところまで追い込まれている事例もある。その意味で、「許さない都市」≒「闘う都市」とも言える。

では、彼らは何を条件に隣人がいること、すなわち居住地が都市であることを許しているのか。それは、隣人のステータスだ。安心できる、同じように裕福な人が住むのであれば、という条件だ。また、建築や道路など、都市形態にも多く口を出し、生活圏を「選んだもの」としている。これは、怒りの拒絶であり、排除だ。 ダライ・ラマ14世は、著書「ゆるす言葉」の中で、「(前略)見知らぬ無数の人々の親切がなかったら、これらのどれひとつとして存在せず、享受することも利用することもできないのです。」とし、排除への批判的な考えを明らかにしている。
都市を、他者の存在を、感謝し、都市への怒りを、「許す」にはどうしたらよいのか。
ここに、技術者・企画者の提案の力量が問われている。
建築・都市に、「技術」の側面から関わる立場の者として、日常生活への「喜び」を感じる事が出来るような具体的な提案を、行っていかなければならない、と、思いを強くした。

そのためにも、現在、社会で表現されている「都市の怒り」に知悉し、それを日常生活のレベルにまでさかのぼって考える。その上で、「許し」が可能な環境をつくるには何が必要なのか考える必要があるだろう。




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仏像、恐竜、文房具。振り返れば多趣味。いや、趣味ではなく、真剣なのだ。それが問題。ジャンル問わず展覧会に興味あり。
一級建築士。工学修士。ユーザーの視点から建築・都市を考え企画するのがライフワークです。
https://twitter.com/wagyoo

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