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日常、考え事。たまに少し冒険。
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 本書は安井算哲、保井算哲、渋川春海、という3つの名を使い分ける人物の、「改暦」にまつわる物語。
 宣明歴という、800年来続いてきた暦に、2日というズレが生じている。この暦を改め、新しい暦をつくる、という国家プロジェクトのドキュメンタリーだ。政治・宗教・経済とあらゆる面に多大な影響力をもつ暦を改める。プロジェクトに立ち向かっていく姿を映す、きわめて現代的なテーマと思う。 時代は、戦国の世を終え、天下泰平の世に向かいつつあった。渋川春海が20代前半の頃から没するまでが描かれている。

『安井算哲・・・お主、本日が実は明後日であると聞いてどう思う?』

物語中出てくる問いだ。 
 800年で2日のズレ。これを大きいとみるか、小さいとみるか、一般的な感覚ではとても判断がつかない。暦がずれるだけで、今日が明後日になる。暦の上では明後日だが、身体は今日を生きている。わかりにくい。
 実は、このズレが「問題になる」ということが、時代背景なのではないか。もちろん、同時代、暦は世界中で調整がされていたし、日時を正確に刻んでいくことは、人類にとって重要なことだ。だが、現代社会では、「暦の上では春です」と言われて、その日に衣替えを断行するわけではないし、何か行事があるわけでも無い。その気になれば暦(≒カレンダー)はPCで簡単に作れるし(グレゴリオ暦)、それが政治・経済・宗教に大きな影響を及ぼすとは考えにくい。

 一方、渋川春海は暦について、下記のように表現している。

 暦は約束だった。泰平の世における無言の誓いと言って良かった。“明日も生きている”“明日もこの世はある”。天地において為政者が、人と人とが、暗黙のうちに交わすそうした約束が暦なのだ。(pp.7)

 暦という、「社会的な合意」によって、天下の泰平を盤石なものに。改暦だけで天下泰平がなるわけでは、もちろん無い。しかし、改暦がどのように社会に影響を与え、なぜ国家プロジェクトたり得るのか。それを、本書で読んで欲しい。最後の100ページは、本当に息がつけなかった。算術オタクが、その極みにおいて暦を改める、というところにとどまる物語ではない。  

 また、保科正之や水戸光圀など時の権力者とのやりとりは、視点が庶民(?)的であるだけに入り込みやすい。時代背景がすんなり理解できる。同時代に生き、交流のあった関孝和などの、稀代の数学者も出てくる。ニュートンやライプニッツに先駆け、いくつかの数学的発見を成した人物だ。時の、偉大な人物が織りなす一大事業。渾天儀、天文分野之図など、渋川春海の歴史に名を成す成果も物語にちりばめられている。

 時間を、過去・現代・未来をいう、一軸的な、不可逆的なものでなく、「 原理・原則」として理解しようとした試みが改暦。あるいは、過去・現代・未来をしっかり刻んでいくための「法則」を確立した改暦。いずれにしても、良い本に出会えた。

 すでに漫画化されており、今秋、映画も公開されるとのこと。楽しみ。

 

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 発言を捉える「姿勢」によって、印象が全く異なる、そんな個性をもつラジオパーソナリティの思考が、この本には詰まっていた。

 TBSラジオに「小島慶子 キラ★キラ」というラジオ番組がある。そのパーソナリティである小島慶子が書いた本。

 私は、中学生の頃からラジオが好きで(同級生にはラジオ好きがほとんどいなかった・・・)、ここ数年で、最近離れかかっていた「ラジオ」に引き戻された、メディアとしてのラジオの可能性に再び引き寄せられた、そんなきっかけをつくってくれたラジオパーソナリティがこの本の著者だ。

 この本の帯に書いてある、「世の中って捨てたもんじゃないよ!」は、嘘じゃない。ラジオの中で小島慶子が切り取る、日常の小さな出来事は、人が入り込みやすく、共感しやすく、たわいもない。そうした小さな日常に幸福をみつける、こうした話で気楽に日常を楽しむ。というスタンスは、せわしなく動く日常の隙間に入り込んできて心地よい。社会を良くしようぜ、暮らしやすい社会にしようぜ、みたいな力みがない分、かえって社会について取り上げる語り口は軽やかで忌憚ない。こういうスタンスが社会を変えるんじゃないか、と素直に思う。

 個人的には、キラ★キラの金曜日はちょっと変な気取りがあって馴染めないけれども、月曜日〜木曜日はなんとなく楽しみで、待ち遠しくなってしまう。もはや日常に入り込んできているラジオ番組だ。

 本を読むほどまでに、マスメディアに顕れている人物に興味が出たのは本当に久しぶりだった。本書では、下記の3点、印象的だった。

・女子アナがニュースを伝えるとき、きれいに足をそろえていなくてもニュースの内容は変わりません。でも、足をそろえていないと「気になる」という視聴者もいる。「気になる」と、肝心のニュースに関心が持たれなくなってしまう。それと同じで、私が「これを見て!これを聴いて!」とと思いながら、私なりに面白く分かりやすく説明したとしても、化粧がどうだとか、髪型がどうだとか、背が高すぎるとか、思いもよらないところに関心を持たれ、伝えたいことが何も伝わらなかったりする可能性が大いにある。(中略)テレビって不自由だな。情報量が多いからこそ不自由なんだろうな—。(pp.36) 

 これは、TVを批判するものでも、貶めるものでもない。ただの事実だ。ただ、そうした「些末な情報」によって伝えたいことがかき消されてしまうことや、伝えたいことを伝えるためにたくさんのエネルギーや工夫が必要なことを示している。その「些末な情報」に対する配慮によって、番組を予定調和で分かりやすいものにせざるを得ないのが、TVの残念なところだ、と私は思っている。こうした意見は、「本当に伝えたいこと」がオンタイムに出てこない人からは出てこないのではないか。小島慶子には、オンタイムで伝えたいことがあるのだな、と感じた。


・「どうでもいい」言葉でまとめるより、その方がずっと「いい」んです。何かモヤモヤした感じとか、後味の悪いものであっても、何かしらの痕跡を人の心に残すのが番組。「聴いたという痕跡」を、ほんの少しでも心に残さなければ、放送の意味なんてありません。(pp.70)
・形の悪いお土産―ちょっと気持ち悪かったり、すっきりしない感じのものーがその人の手に渡ったということは、実はその問題がその人のものになったということ。ほんの少しであっても、その人自身に取り込まれたという証拠です。(pp.72)


 当たり障りが無いけれど、意味がっまたくない言葉によって、お茶を濁さない。なぜ公共の電波に乗せてお話をするのか。どのような感覚がリスナーに伝わればそれは意味があったのか。正直、こんなこと考えたことすら無かった。

・「討論に見えるもの」でも「ガチンコに見えるもの」でもなく、見る人が、聴く人が、「これ、討論になっちゃってるんじゃない?」とか「これ、もしかしたらガチンコなんじゃないの?」って決められる自由さが欲しい。「ラジオ的コンテンツ」が強いのは、その自由さがあるからです。(pp.190)

 日常で、他者と起こり得るコミュニケーションと同じように、放送ですれ違いや衝突があったってイイ。人間関係のなかでの正常な現象だ。という考えは新鮮だ。それをつくられたもの、とみようが、対話とみようがそれは受け手の自由。前に芸人の「オリエンタルラジオ」が生放送中に喧嘩した、というのがあったけれど、人間同士だもの、そういうことがあったってイイ。「いい大人が、何やってるんだ」という「オトナな意見」はすごく幼稚に見える。人間同士のぶつかり合いを、素直に受け入れることができていないからだ。

 本書の中では、「アクセス」など過去につくり上げた番組のこと、局アナ時代のことなども書いてある。この他にも、雑誌などでもたくさん、言葉の表現を変えて述べられていることはある。

 本書とは直接関係ないが、私は、小島慶子の、「日常の小さな動きに着目するスタンス」と、「日常の小さな面白い出来事を見つける能力」の2つから学ぶことが多く、これからも学んでいきたいと思っている。

 たくさんのことを書いたが、もしかしたら私は、「TVの局アナ」として求められている役割に違和感を覚えているアナウンサーがいた、という事実に安心しているだけなのかもしれない。なんでも予定調和、のTVが嫌いな私の傾向が、浮き彫りになった。これからのラジオが、どうなっていくのか、本当に楽しみだ。こういうつくり手がいる限りにおいて、前向きな受け手でいられる。そのことが、うれしい。


  




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本; 吉本隆明+坂本龍一、「音楽機械論」 1986、ちくま学芸文庫

 本書は、坂本龍一が、当時1986年前に使っていたスタジオに、吉本隆明を招いて、対談する、という企画本。文庫版には付録がないが、吉本隆明が対談の中で作曲した、「ひとさし指のエチュード」という曲がある。単行本ではソノシートが付録されていた。今はwebで、Disco Mixを聴ける。イイ。 http://www.juzp.net/zQfAOsPngF1j9

 文中では、坂本龍一が吉本隆明に制作の方法論や制作に取り組むスタンスなどをレクチャーする方式でやりとりがされている。その中で同世代のつくる音楽のこと、音楽をつくるときに考えていること、音楽と社会の関係性など、きわめて多様なことが語られている。吉本隆明の感じたことをベースに坂本龍一が応えるかたちでインタビューされている。鋭い。音楽をベースに、「つくる」という制作の原点が、やりとりされている。音楽をつくるときに、制作者にどのような傾向があるか考え、どのように制作に活かすか。
 たとえば、坂本龍一の音楽の制作に関する自己認識として、下記の3点が上げられている。ばらばらだったがまとめて引用してみる。


【音楽的文法について】:
(中略)いろんな面があって、自分は昔から音楽の知識は持っているんだけども、つまり語彙はあるけども、文法的な欠損があるというか、自分でそういう感じがするんですね。(中略)音楽的に分裂症というか、瞬間瞬間のいろんな語彙とか色彩感とかは、自分でも持っていると思うのですけれども、それをうまく統辞法に則って、ということは、つまりだれでも歌えたり、だれもが、ある1つのメロディーだと認識できたりというような、それがある意味で大衆性だと思うんですけれども、そこにうまく乗っかれない。
【言葉について】:
(中略)僕にはよく言葉が聞こえてこないんです。ときどき、例えば花とか、泣いたとか、島とか、恋とか、それぐらいのところがフッと言語的に聞こえてくるだけで、あとは意味がよくわからないんです。
【抑制機構】:
僕のなかに、非常に自分でも嫌な禁欲的なところがあって、つまり、音楽というのは、すごく強制力があるんじゃないかというふうに、すごく感じちゃうんです。(中略)ある音楽を聴くと、みんなが元気になっちゃったり、変に悲しくなっちゃったりとか、かなり暴力的に、視覚以上に、視覚は見る側が拒否することができますけど、音というのはなかなか拒否出来ないということで、かなり強制力はあるんじゃないかということを常々思っているんです。あんまり素直に音楽してしまうと、なんか他人に迷惑かけるというか(笑)、人様に迷惑というか、つまり暑苦しいというか、それがわりと僕の場合、抑制機構になっています。


 とくに注目したのは、【音楽的文法について】だ。坂本龍一は、「統辞法に則って」、「大衆性」をもつような音楽をつくることに「うまく乗っかれない」、といっているが、演歌の作曲も手掛けている(前川清、「雪列車」 http://www.youtube.com/watch?v=cOXLmRRFqmg&feature=related)。
つまり、音楽的な「統辞法に則って」おこなう作曲にも挑戦し、評価を得ている。それに対し、吉本隆明は、下記のようにコメントしている。


(中略)「雪列車」みたいな次元の仕事を、わりに片手間という意味とか、気分を楽にしてという意味じゃなくてそうとう意識的にと言ったほうがいいんでしょうかね、やってくれるといいのになあという感じはあるんですね。それはエネルギーの問題であったり、感性の問題であったり、価値観の問題であったり、いろいろなことがあるでしょうけど、僕は、どうしてこういうことをもっとしないのかな、みたいな感じを持つんですね。

 坂本龍一は先に引用したような自己認識を持っているが、吉本隆明のコメントを受けて、下記のように応えている。
 
 「雪列車」みたいなものをつくったのは、そういう文法に則って正しく文章を書くみたいな、つまりそうしないと、人に伝えることにならないですよね。意味不明なことを言っている、単語単語が面白くても、いろんな語彙を持っていても、どんなにつなげていっても意味不明だというような、そっちに僕自身は近いような気がするんです。だから、そういう欠陥があると言うことを知っているから、歌をつくることで、そういう欠陥を修復しようというか、そういう意識はずいぶんあるんです。

 坂本龍一のもつこうした傾向を、私は欠陥とは思わないが、少なくともこうした認識を持った上で、自身のそうした傾向を逆手にとって表現の幅を拡げようとする試み、あるいは越境はすごいことだ。

 また、本書ではきわめて抽象度の高いやりとりがされているが、逆説的に、本書での吉本隆明と坂本龍一とのやりとりによって、自分の習慣や認識に裏付けを得られたように思う。たとえば、なぜ、歌謡曲よりインストロメンタルのほうが、「ながら」に向いているのか?といったような音楽の聴き方に関するものだ。クラフトワークに代表されるような音楽の表現について、坂本龍一は下記のように言っている。


(中略)クラフトワークが出てきたときに僕らがびっくりしたというのは、やはりある種の平板さに感動したんです。(中略)声だけじゃなくて、音のほうも、同じ音圧の同じような音色が、もうほとんど延々と繰り返されていますね。(中略)従来の音楽をつくり出す、そのもとにあると信じられていたエモーションというもの、全然設定しなくてやってるんだなということが想像できます。そのもとにある根源みたいなことを、想像しなくていい分だけ、ものすごく軽くて新鮮なわけです。彼らのその平板さの魅力というのは、シンセサイザーを全面的に使っていることと、やはり切り離せないですね。コンピューターなり機械は、あるひとつの音が出来たら、それを何回でも繰り返すということは、ものすごく簡単なことです。人間がやるとこれは、かえって難しいわけですね、均等に同じことを繰り返すというのは、人間には難しい、機械はたやすく出来る。だから人間では表せないその極端な平板さというものが、人間を束縛することによって、それは逆に心地よさに変わっていくような気がして、その傾向というのは、やはり全般的にあるような気がします。

 言葉のない音楽、抑揚のない音楽の心地よさを表現する言葉に、なぜ、これまで自分がこうした音楽に惹かれてきたのか、答えを見たように思った。また、下記のようにも言っている。

(中略)僕らからすると、とくにジョン・ケージですけども、彼が、雑音=ノイズを音楽の要素として取り込んだということは、革命的だったと思うんです。(中略)あるいはヒストリーとか、物語かもしれないけども、そういうものを持っているべきだというか、べきと思わなくても、無意識で自然に持っちゃうというそういうことを壊したということでもあると思うんです、ジョン・ケージは。(中略)音楽というのは始まりと終わりがあれば、真中があって、そこに何らかのストーリーが展開されちゃうんだけども、それをそうとう意識的に壊してしまった。それは思想的にどうこうということではなくて、やはり、ものすごく気持ち良かったわけです。それまでそういう音響のつながりを聞いたことがなかったでしょう。

 この2つの言い回しによって、なぜ、心地よく音楽を聴きながら、思い思いの思索や作業に没頭するにはこうした音楽が適しているのか、明確になった。詩のある、いわゆる歌謡曲では、聴く人を「言葉」によって、「物語」に引き込もうとする。音楽によってつけられた抑揚で、人を引き込む。ここで挙げているような音楽には、それがない。あくまで、抑揚のない「音」の連なりによって、「曲」ができる。思い思いに聴くことができるのだ。曲の始まりがどこで、終わりがどこ、といったようなことも、エンドレスにかければ問題にならない。長縄飛びのように、どのタイミングで入ってもイイし、どのタイミングで抜けてもイイ。思い思いに聴くことができるのだ。アーティストによっては、アルバム1枚がまるごとシームレスにつながっているケースもある。

 話は一転するが、下記は、坂本龍一の世界観を示す、代表的な言葉だと私は考えている。それは、「音楽」がなぜ世界共通で楽しまれるのか、そうしたグローバルな広がりを感じるのに、とても重要な考え方だと思う。本書を読んで、下記の言葉に出会えたのが最大の収穫だと感じている。世界は一つ。


 僕らが子供の頃に習ったり聞き覚えてきて、僕のルーツになった近代音楽というのを、もう一度柔軟にひも解いてやると、アジアまでまた戻されてしまうんじゃないか、僕らまでつながってくるんじゃないかという、大雑把なそういうイメージがあるんです。

 坂本龍一の表現や活動の幅はきわめて広い。しかし、本書でわかった。最初は狭かったのだ。学生時代に追求した現代的な音楽の課題への取り組み(音色の発見)から、「表現」へと舵を切り、自らの表現の傾向を正確に把握することで取り組む表現課題を設定し、表現の幅を拡げる。

 坂本龍一の「音楽制作」に触れることができた。インタビュアーが吉本隆明でなければ、これほど議論が深まらなかったのでは?との想いから、本書はきわめて貴重な、制作現場のドキュメンタリーにもなっていると思う。


↓単行本版のみに、ソノシート付き。

  

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女装と日本人の関係を、歴史的に綴った本。とても興味深い思索に富んでいた。

日本で、古代よりどのような場面で、どのような人が女装を行ってきたか、社会はそれを、どのように受け止めていたか、というところが序章。そこから、近世、近代、現代と時間をたどっていく。
勉強になったのは、西欧諸国以外の世界では、かなり女装の男性が活躍している、ということ。西欧では、宗教(キリスト教)によって異裝者が弾圧されてきた、ということ。日本の古代は広く女装(異性裝)が行われてきたが、明治期以降の西欧医学の導入で、「変態性欲」とみなされ、「風紀を乱す」として規制され、アンダーグラウンド化した、ということ。とくに、異性裝者(もしくはホモ・セクシャル)に寛大だと思っていた西欧社会に対する認識は、180度変わった。
こうした歴史の流れを本書に沿って読み進むと、確かに筆者が豊富な経験をもとに主張するように、男性・女性の2元論は極端に見える。とくに、「男性が表現する女性の妖艶さ」という表現には、異性裝者に間近で遭遇した経験もないのに何故か納得できた。
コミュニティによって、あるいは、共同幻想によって性別が規定される、という視点も興味深かった。「あなたが男性なのは分かっているけれど、俺にとっては女」という、女装者とともに、対峙者も一緒にトランスジェンダーする、という認識には始めて触れた。
「曖昧な性」という、終章での著者の思想は、本書を読むまではおそらく極論に見えた。しかし、本書を読み終えた後ではそうはいかない。男/女を極めて強力に規定する社会の極端さがはっきりするからだ。

 

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「パチンコ全面禁止」を主張する本を読んだ。 私にとっては、とても新しいテーマだ。考えたこともなかった。
パチンコは好ましいことではないと感じているし、そのためパチンコで遊んだこともない。店の内外の雰囲気は街を低俗なものにしてしまう、という観点から嫌いだっただけだ。パチンコ店の駐車場で、車内に置き去りにされた幼児が熱中症でなくなるニュースをみても、それをパチンコの罪悪として考えたことはなかった。パチンコにそこまで入れこむ大人の人間性の罪悪として考えていた。

本書では、そうした考え方にNoを突きつける。パチンコ依存はパチンコメーカーやパチンコ店に巧妙に仕組まれた罠に依るものであり、個人の資質のみのせいにすることはできない、という主張がある。パチンコ業を監督する省庁も、政治家も問題認識が甘い。筆者には、パチンコ依存が、社会全体の問題であるという強い想いがあると感じられる。
社会全体の問題であるが故に、「全面禁止」も正当化される、という考えなのかもしれないが、本当にそうなのだろうか。 その点には勉強不足で疑問が残る。そうした基本的な問題構成に疑問が残るものの、本書には共感できる点も多い。

例えば下記

賽の河原が、全国津々浦々にあり、どんな田舎に行っても、現代の賽の河原が存在する。恐ろしいことである。金の問題よりも、パチンコにより人心が荒廃させられている。それが何よりも恐ろしいのである。(pp94店内は、まさに賽の河原)

本書における、筆者の基本的な問題意識だ。筆者の想いには共感できる。
しかし、下記の記述に代表されるように、極めて偏った認識、あるいは非論理的な表現が目立つ。

・警察によるパチンコ100万台の摘発没収という話も頷ける。それにしても、業界の抵抗がなかったものか気になるところだが、韓国の人たちは、軍隊経験を経ている男が多いので、法律で決まったことには潔く従うそうである。(pp36 抵抗勢力による妨害はなかったのか?)
・子殺し、親殺しはパチンカーに多いと言われている。(pp94 母を殺し、金をとってパチンコ店に行った息子)

記述が、根拠に乏しいのが本書の欠点だ。韓国に渡って多くのインタビューをしたきたようだが、そのときにインタビューした相手が行っていた内容を、鵜呑みにしてそのまま採用している印象がある。法律ができて、韓国からパチンコ(メダルチギ)がなくなった、という事実以外に、信頼を置ける記載が少ない。
筆者は、日本の政治・マスコミの、パチンコ業界(?)との癒着も指摘している。ただし、(一部には具体的な組織や個人を挙げた記述があるが)一般論としての抽象的な記述が多く、やはり真否は本書で確認できない。マスコミ批判の1つが下記だ。

庶民の声に「ちゃんと反応する」ことの大切さを日本のマスコミは忘れている。弱者の苦しみや、悲しみに対して、日本のマスコミは「ちゃんと反応」していない。本来は、マスコミはどこよりも早く、「ちゃんと反応」しなくてはいけない事例の1つがパチンコの問題なのである。(pp133 パチンコ問題に目を瞑るマスコミの責任)

というように、マスコミの感度に関して批判している。確かに、マスコミの社会問題に対する感度を高めることで、社会に貢献できることは増える。その点には共感できる。しかし、本書でおいて、筆者のマスコミ批判の核心は下記だ。

マスコミは、CM収入というお金を重視するあまり、パチンコの被害に目を瞑り、心を疎かにしている。日本の新聞やテレビは良心を失っていると言っても過言ではない。(pp132 パチンコ問題に目を瞑るマスコミの責任)

日本人として、日本で暮らしている以上、このような言論的な文化があるのは理解できるが、それは一般論だ。一般論をもとにマスコミをすることは不毛だ。

このように、本書ではソースが、極めて少ない。インタビューした方の発言や、Wikipedia、新聞記事など、個別的な事例を集めている。データをもとに、説得力のある一般論を展開する努力はしていない。1つ参考になるのは、国を相手取った訴訟の事例紹介である。 金に目がくらんだマスコミ(広告費)と省庁(天下り)、政治家(献金)、という図式を好んで用いているが、なぜ、韓国のマスコミがそうした弊害を乗り越えることができたのか、という問いには、マスコミや政治家の「良識と使命感」によって答えている。
本書は、社会問題としてのパチンコ、という主張で画期的な面もあるが、説得力を欠いた記述で共感できない点が多い。

批判的な書き方をしてしまったが、それは本書の、「主張の方法」に納得できなかったからで、「主張の内容・目的」には共感している。「社会問題としてのパチンコ(と賭博)」という考え方の入り口として、とても参考になったし、筆者のもつ「想い」に共感できる点は多い。特にパチンコをやったことのない私には、初めて知る事実も多かった。本書で学べなかったデータや、社会的な事実については、できる範囲で自ら調べてみよう。


    


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わぎゅう
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男性
自己紹介:
仏像、恐竜、文房具。振り返れば多趣味。いや、趣味ではなく、真剣なのだ。それが問題。ジャンル問わず展覧会に興味あり。
一級建築士。工学修士。ユーザーの視点から建築・都市を考え企画するのがライフワークです。
https://twitter.com/wagyoo

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