忍者ブログ
日常、考え事。たまに少し冒険。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

Twitter「つぶやく」ボタン
 発言を捉える「姿勢」によって、印象が全く異なる、そんな個性をもつラジオパーソナリティの思考が、この本には詰まっていた。

 TBSラジオに「小島慶子 キラ★キラ」というラジオ番組がある。そのパーソナリティである小島慶子が書いた本。

 私は、中学生の頃からラジオが好きで(同級生にはラジオ好きがほとんどいなかった・・・)、ここ数年で、最近離れかかっていた「ラジオ」に引き戻された、メディアとしてのラジオの可能性に再び引き寄せられた、そんなきっかけをつくってくれたラジオパーソナリティがこの本の著者だ。

 この本の帯に書いてある、「世の中って捨てたもんじゃないよ!」は、嘘じゃない。ラジオの中で小島慶子が切り取る、日常の小さな出来事は、人が入り込みやすく、共感しやすく、たわいもない。そうした小さな日常に幸福をみつける、こうした話で気楽に日常を楽しむ。というスタンスは、せわしなく動く日常の隙間に入り込んできて心地よい。社会を良くしようぜ、暮らしやすい社会にしようぜ、みたいな力みがない分、かえって社会について取り上げる語り口は軽やかで忌憚ない。こういうスタンスが社会を変えるんじゃないか、と素直に思う。

 個人的には、キラ★キラの金曜日はちょっと変な気取りがあって馴染めないけれども、月曜日〜木曜日はなんとなく楽しみで、待ち遠しくなってしまう。もはや日常に入り込んできているラジオ番組だ。

 本を読むほどまでに、マスメディアに顕れている人物に興味が出たのは本当に久しぶりだった。本書では、下記の3点、印象的だった。

・女子アナがニュースを伝えるとき、きれいに足をそろえていなくてもニュースの内容は変わりません。でも、足をそろえていないと「気になる」という視聴者もいる。「気になる」と、肝心のニュースに関心が持たれなくなってしまう。それと同じで、私が「これを見て!これを聴いて!」とと思いながら、私なりに面白く分かりやすく説明したとしても、化粧がどうだとか、髪型がどうだとか、背が高すぎるとか、思いもよらないところに関心を持たれ、伝えたいことが何も伝わらなかったりする可能性が大いにある。(中略)テレビって不自由だな。情報量が多いからこそ不自由なんだろうな—。(pp.36) 

 これは、TVを批判するものでも、貶めるものでもない。ただの事実だ。ただ、そうした「些末な情報」によって伝えたいことがかき消されてしまうことや、伝えたいことを伝えるためにたくさんのエネルギーや工夫が必要なことを示している。その「些末な情報」に対する配慮によって、番組を予定調和で分かりやすいものにせざるを得ないのが、TVの残念なところだ、と私は思っている。こうした意見は、「本当に伝えたいこと」がオンタイムに出てこない人からは出てこないのではないか。小島慶子には、オンタイムで伝えたいことがあるのだな、と感じた。


・「どうでもいい」言葉でまとめるより、その方がずっと「いい」んです。何かモヤモヤした感じとか、後味の悪いものであっても、何かしらの痕跡を人の心に残すのが番組。「聴いたという痕跡」を、ほんの少しでも心に残さなければ、放送の意味なんてありません。(pp.70)
・形の悪いお土産―ちょっと気持ち悪かったり、すっきりしない感じのものーがその人の手に渡ったということは、実はその問題がその人のものになったということ。ほんの少しであっても、その人自身に取り込まれたという証拠です。(pp.72)


 当たり障りが無いけれど、意味がっまたくない言葉によって、お茶を濁さない。なぜ公共の電波に乗せてお話をするのか。どのような感覚がリスナーに伝わればそれは意味があったのか。正直、こんなこと考えたことすら無かった。

・「討論に見えるもの」でも「ガチンコに見えるもの」でもなく、見る人が、聴く人が、「これ、討論になっちゃってるんじゃない?」とか「これ、もしかしたらガチンコなんじゃないの?」って決められる自由さが欲しい。「ラジオ的コンテンツ」が強いのは、その自由さがあるからです。(pp.190)

 日常で、他者と起こり得るコミュニケーションと同じように、放送ですれ違いや衝突があったってイイ。人間関係のなかでの正常な現象だ。という考えは新鮮だ。それをつくられたもの、とみようが、対話とみようがそれは受け手の自由。前に芸人の「オリエンタルラジオ」が生放送中に喧嘩した、というのがあったけれど、人間同士だもの、そういうことがあったってイイ。「いい大人が、何やってるんだ」という「オトナな意見」はすごく幼稚に見える。人間同士のぶつかり合いを、素直に受け入れることができていないからだ。

 本書の中では、「アクセス」など過去につくり上げた番組のこと、局アナ時代のことなども書いてある。この他にも、雑誌などでもたくさん、言葉の表現を変えて述べられていることはある。

 本書とは直接関係ないが、私は、小島慶子の、「日常の小さな動きに着目するスタンス」と、「日常の小さな面白い出来事を見つける能力」の2つから学ぶことが多く、これからも学んでいきたいと思っている。

 たくさんのことを書いたが、もしかしたら私は、「TVの局アナ」として求められている役割に違和感を覚えているアナウンサーがいた、という事実に安心しているだけなのかもしれない。なんでも予定調和、のTVが嫌いな私の傾向が、浮き彫りになった。これからのラジオが、どうなっていくのか、本当に楽しみだ。こういうつくり手がいる限りにおいて、前向きな受け手でいられる。そのことが、うれしい。


  




拍手[1回]

PR
Twitter「つぶやく」ボタン

①エジプトの民衆革命の陰の立て役者は「フーリガン」ーアルジャジーラ

フーリガンは、サッカーの大会で興奮するあまり火炎瓶を投げるなど過激な行動が、市民から疎まれていた。しかし、その行動の矛先が変わることで、民衆からの評価を得ている、ということだった。
意外な事実だ。
長年、競技場などで警察と衝突してきた彼らの闘争のノウハウが抗議デモに活かされているという。
対象が変われば評価も変わる、ということか。


②ピーター・ティールの海上の新国家建設(案)


ペイパルの共同創始者である、ピーター・ティールは、急進的なリベラリストだ。そのリベラルな思想に基づき、新しい国をつくる、そのプロジェクトに投資をする。そういう取り組みを紹介する記事だ。
リベラルな国家を、公海上に建設したい、とのことだ。
海洋国家、とは日本でも開国前後議論されていた。しかし、そこで指す海洋は、海洋を戦略的資源として位置づける、程度のものだが、今度のは資本による独立国家、という構想だ。国連には承認されるのか?とか具体的な問題は解けるんだろうか。
自身、参加したいかという逼迫した問題としては捉えにくいが、非常に興味深い。



また、TIME誌の「世界の発明品」ベスト50は必見。
とても面白い。



拍手[0回]

Twitter「つぶやく」ボタン




真珠湾攻撃のシーンを観て、涙が止まらなかった。

我が国の「終わり」が「始まって」しまった、と強烈に印象されたからだ。
その真珠湾攻撃を、参謀とともに企て、実現した山本五十六。

「太平洋戦争に最も反対した人物が、前線で戦争を行っていた」という矛盾により、山本五十六の人間性、想い、戦略を浮き彫りにする、という映画だ。
 
 これまでも山本五十六に関する書籍は数多く出版されており、傑物としてのイメージが浸透していると思う。

 本編については、随分たくさんの歴史的なことが省略されているし、山本五十六を祭り上げすぎている印象はある。たとえば、黒島亀人(wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B3%B6%E4%BA%80%E4%BA%BA)や、南雲忠一(wikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%9B%B2%E5%BF%A0%E4%B8%80)などは、偏った表現をされていると言っていいだろう。

 それは、山本五十六、という「人物」に着目して、太平洋戦争を描くためだと感じた。つまり山本五十六という優れた人物が太平洋戦争の時代にもいたが、その人物を持ってしても、戦争は止められなかった、という表現になっている。

 しかし、山本五十六を褒め称えることで新たに起こり得る「戦」は防げない。山本五十六が稀代の軍人であったことは論を待たないが、彼は悲劇の体現者なのだ。山本五十六を英雄にすることは、ある種の惰性だ。そうではなく、 我々はその悲劇から学び尽くさねばならない。それは、映画という表現のあり方にも起因するものなのかもしれないが。

 山本五十六という人物を通じて、リアルタイムに戦争を体験していない、「戦争」の想像も難しい私が、どのように戦争が始まってしまったのか、追体験できる作品だった。

 最後に、本日がこの映画の公開初日だが、私の行った劇場はガラガラだった。観客の平均年齢も高い。ざっと見回して、60歳前後だったのではないか。私(26)は間違いなく最年少。こういう状況にこそ、危機を感じる。歴史から、しっかり学び取らねばならない。同じ過ちを繰り返さないために。来年は開戦から70年(終戦ではなく開戦)。節目の年になりそうだ。



   

拍手[1回]

Twitter「つぶやく」ボタン

基本的に、とても図鑑的な内容で、知識欲旺盛な方にはすごく魅力的な内容かと思う。
私は、下記の2点、興味深かった。


1.芸術家たちを後押しした”第三のパトロン”の富
中世までのパトロン、君主と教会に加え、ギルド(職域組合)を挙げている(ブルジョア、ではない)。あくまで、職業組織としてのギルドをパトロンとして取り上げ、なぜ彼らに「芸術的(宗教的)な主題」が必要だったのか、ということが書かれていて興味深い。


2.ファッションのこと。女性の社会進出のこと。
行き過ぎたファッション、の項目が面白い。歴史的な、「若気の至り」に見えた。


日常生活レベルでのルネサンスを取り上げている項目が充実していて、読み応えがあった。漫画「テルマエ・ロマエ」の作者、ヤマザキマリさんのエッセイも面白かった。一読の価値のある特集。

拍手[1回]

Twitter「つぶやく」ボタン
本; 吉本隆明+坂本龍一、「音楽機械論」 1986、ちくま学芸文庫

 本書は、坂本龍一が、当時1986年前に使っていたスタジオに、吉本隆明を招いて、対談する、という企画本。文庫版には付録がないが、吉本隆明が対談の中で作曲した、「ひとさし指のエチュード」という曲がある。単行本ではソノシートが付録されていた。今はwebで、Disco Mixを聴ける。イイ。 http://www.juzp.net/zQfAOsPngF1j9

 文中では、坂本龍一が吉本隆明に制作の方法論や制作に取り組むスタンスなどをレクチャーする方式でやりとりがされている。その中で同世代のつくる音楽のこと、音楽をつくるときに考えていること、音楽と社会の関係性など、きわめて多様なことが語られている。吉本隆明の感じたことをベースに坂本龍一が応えるかたちでインタビューされている。鋭い。音楽をベースに、「つくる」という制作の原点が、やりとりされている。音楽をつくるときに、制作者にどのような傾向があるか考え、どのように制作に活かすか。
 たとえば、坂本龍一の音楽の制作に関する自己認識として、下記の3点が上げられている。ばらばらだったがまとめて引用してみる。


【音楽的文法について】:
(中略)いろんな面があって、自分は昔から音楽の知識は持っているんだけども、つまり語彙はあるけども、文法的な欠損があるというか、自分でそういう感じがするんですね。(中略)音楽的に分裂症というか、瞬間瞬間のいろんな語彙とか色彩感とかは、自分でも持っていると思うのですけれども、それをうまく統辞法に則って、ということは、つまりだれでも歌えたり、だれもが、ある1つのメロディーだと認識できたりというような、それがある意味で大衆性だと思うんですけれども、そこにうまく乗っかれない。
【言葉について】:
(中略)僕にはよく言葉が聞こえてこないんです。ときどき、例えば花とか、泣いたとか、島とか、恋とか、それぐらいのところがフッと言語的に聞こえてくるだけで、あとは意味がよくわからないんです。
【抑制機構】:
僕のなかに、非常に自分でも嫌な禁欲的なところがあって、つまり、音楽というのは、すごく強制力があるんじゃないかというふうに、すごく感じちゃうんです。(中略)ある音楽を聴くと、みんなが元気になっちゃったり、変に悲しくなっちゃったりとか、かなり暴力的に、視覚以上に、視覚は見る側が拒否することができますけど、音というのはなかなか拒否出来ないということで、かなり強制力はあるんじゃないかということを常々思っているんです。あんまり素直に音楽してしまうと、なんか他人に迷惑かけるというか(笑)、人様に迷惑というか、つまり暑苦しいというか、それがわりと僕の場合、抑制機構になっています。


 とくに注目したのは、【音楽的文法について】だ。坂本龍一は、「統辞法に則って」、「大衆性」をもつような音楽をつくることに「うまく乗っかれない」、といっているが、演歌の作曲も手掛けている(前川清、「雪列車」 http://www.youtube.com/watch?v=cOXLmRRFqmg&feature=related)。
つまり、音楽的な「統辞法に則って」おこなう作曲にも挑戦し、評価を得ている。それに対し、吉本隆明は、下記のようにコメントしている。


(中略)「雪列車」みたいな次元の仕事を、わりに片手間という意味とか、気分を楽にしてという意味じゃなくてそうとう意識的にと言ったほうがいいんでしょうかね、やってくれるといいのになあという感じはあるんですね。それはエネルギーの問題であったり、感性の問題であったり、価値観の問題であったり、いろいろなことがあるでしょうけど、僕は、どうしてこういうことをもっとしないのかな、みたいな感じを持つんですね。

 坂本龍一は先に引用したような自己認識を持っているが、吉本隆明のコメントを受けて、下記のように応えている。
 
 「雪列車」みたいなものをつくったのは、そういう文法に則って正しく文章を書くみたいな、つまりそうしないと、人に伝えることにならないですよね。意味不明なことを言っている、単語単語が面白くても、いろんな語彙を持っていても、どんなにつなげていっても意味不明だというような、そっちに僕自身は近いような気がするんです。だから、そういう欠陥があると言うことを知っているから、歌をつくることで、そういう欠陥を修復しようというか、そういう意識はずいぶんあるんです。

 坂本龍一のもつこうした傾向を、私は欠陥とは思わないが、少なくともこうした認識を持った上で、自身のそうした傾向を逆手にとって表現の幅を拡げようとする試み、あるいは越境はすごいことだ。

 また、本書ではきわめて抽象度の高いやりとりがされているが、逆説的に、本書での吉本隆明と坂本龍一とのやりとりによって、自分の習慣や認識に裏付けを得られたように思う。たとえば、なぜ、歌謡曲よりインストロメンタルのほうが、「ながら」に向いているのか?といったような音楽の聴き方に関するものだ。クラフトワークに代表されるような音楽の表現について、坂本龍一は下記のように言っている。


(中略)クラフトワークが出てきたときに僕らがびっくりしたというのは、やはりある種の平板さに感動したんです。(中略)声だけじゃなくて、音のほうも、同じ音圧の同じような音色が、もうほとんど延々と繰り返されていますね。(中略)従来の音楽をつくり出す、そのもとにあると信じられていたエモーションというもの、全然設定しなくてやってるんだなということが想像できます。そのもとにある根源みたいなことを、想像しなくていい分だけ、ものすごく軽くて新鮮なわけです。彼らのその平板さの魅力というのは、シンセサイザーを全面的に使っていることと、やはり切り離せないですね。コンピューターなり機械は、あるひとつの音が出来たら、それを何回でも繰り返すということは、ものすごく簡単なことです。人間がやるとこれは、かえって難しいわけですね、均等に同じことを繰り返すというのは、人間には難しい、機械はたやすく出来る。だから人間では表せないその極端な平板さというものが、人間を束縛することによって、それは逆に心地よさに変わっていくような気がして、その傾向というのは、やはり全般的にあるような気がします。

 言葉のない音楽、抑揚のない音楽の心地よさを表現する言葉に、なぜ、これまで自分がこうした音楽に惹かれてきたのか、答えを見たように思った。また、下記のようにも言っている。

(中略)僕らからすると、とくにジョン・ケージですけども、彼が、雑音=ノイズを音楽の要素として取り込んだということは、革命的だったと思うんです。(中略)あるいはヒストリーとか、物語かもしれないけども、そういうものを持っているべきだというか、べきと思わなくても、無意識で自然に持っちゃうというそういうことを壊したということでもあると思うんです、ジョン・ケージは。(中略)音楽というのは始まりと終わりがあれば、真中があって、そこに何らかのストーリーが展開されちゃうんだけども、それをそうとう意識的に壊してしまった。それは思想的にどうこうということではなくて、やはり、ものすごく気持ち良かったわけです。それまでそういう音響のつながりを聞いたことがなかったでしょう。

 この2つの言い回しによって、なぜ、心地よく音楽を聴きながら、思い思いの思索や作業に没頭するにはこうした音楽が適しているのか、明確になった。詩のある、いわゆる歌謡曲では、聴く人を「言葉」によって、「物語」に引き込もうとする。音楽によってつけられた抑揚で、人を引き込む。ここで挙げているような音楽には、それがない。あくまで、抑揚のない「音」の連なりによって、「曲」ができる。思い思いに聴くことができるのだ。曲の始まりがどこで、終わりがどこ、といったようなことも、エンドレスにかければ問題にならない。長縄飛びのように、どのタイミングで入ってもイイし、どのタイミングで抜けてもイイ。思い思いに聴くことができるのだ。アーティストによっては、アルバム1枚がまるごとシームレスにつながっているケースもある。

 話は一転するが、下記は、坂本龍一の世界観を示す、代表的な言葉だと私は考えている。それは、「音楽」がなぜ世界共通で楽しまれるのか、そうしたグローバルな広がりを感じるのに、とても重要な考え方だと思う。本書を読んで、下記の言葉に出会えたのが最大の収穫だと感じている。世界は一つ。


 僕らが子供の頃に習ったり聞き覚えてきて、僕のルーツになった近代音楽というのを、もう一度柔軟にひも解いてやると、アジアまでまた戻されてしまうんじゃないか、僕らまでつながってくるんじゃないかという、大雑把なそういうイメージがあるんです。

 坂本龍一の表現や活動の幅はきわめて広い。しかし、本書でわかった。最初は狭かったのだ。学生時代に追求した現代的な音楽の課題への取り組み(音色の発見)から、「表現」へと舵を切り、自らの表現の傾向を正確に把握することで取り組む表現課題を設定し、表現の幅を拡げる。

 坂本龍一の「音楽制作」に触れることができた。インタビュアーが吉本隆明でなければ、これほど議論が深まらなかったのでは?との想いから、本書はきわめて貴重な、制作現場のドキュメンタリーにもなっていると思う。


↓単行本版のみに、ソノシート付き。

  

拍手[1回]

Twitter「つぶやく」ボタン
女装と日本人の関係を、歴史的に綴った本。とても興味深い思索に富んでいた。

日本で、古代よりどのような場面で、どのような人が女装を行ってきたか、社会はそれを、どのように受け止めていたか、というところが序章。そこから、近世、近代、現代と時間をたどっていく。
勉強になったのは、西欧諸国以外の世界では、かなり女装の男性が活躍している、ということ。西欧では、宗教(キリスト教)によって異裝者が弾圧されてきた、ということ。日本の古代は広く女装(異性裝)が行われてきたが、明治期以降の西欧医学の導入で、「変態性欲」とみなされ、「風紀を乱す」として規制され、アンダーグラウンド化した、ということ。とくに、異性裝者(もしくはホモ・セクシャル)に寛大だと思っていた西欧社会に対する認識は、180度変わった。
こうした歴史の流れを本書に沿って読み進むと、確かに筆者が豊富な経験をもとに主張するように、男性・女性の2元論は極端に見える。とくに、「男性が表現する女性の妖艶さ」という表現には、異性裝者に間近で遭遇した経験もないのに何故か納得できた。
コミュニティによって、あるいは、共同幻想によって性別が規定される、という視点も興味深かった。「あなたが男性なのは分かっているけれど、俺にとっては女」という、女装者とともに、対峙者も一緒にトランスジェンダーする、という認識には始めて触れた。
「曖昧な性」という、終章での著者の思想は、本書を読むまではおそらく極論に見えた。しかし、本書を読み終えた後ではそうはいかない。男/女を極めて強力に規定する社会の極端さがはっきりするからだ。

 

拍手[1回]

Twitter「つぶやく」ボタン
「パチンコ全面禁止」を主張する本を読んだ。 私にとっては、とても新しいテーマだ。考えたこともなかった。
パチンコは好ましいことではないと感じているし、そのためパチンコで遊んだこともない。店の内外の雰囲気は街を低俗なものにしてしまう、という観点から嫌いだっただけだ。パチンコ店の駐車場で、車内に置き去りにされた幼児が熱中症でなくなるニュースをみても、それをパチンコの罪悪として考えたことはなかった。パチンコにそこまで入れこむ大人の人間性の罪悪として考えていた。

本書では、そうした考え方にNoを突きつける。パチンコ依存はパチンコメーカーやパチンコ店に巧妙に仕組まれた罠に依るものであり、個人の資質のみのせいにすることはできない、という主張がある。パチンコ業を監督する省庁も、政治家も問題認識が甘い。筆者には、パチンコ依存が、社会全体の問題であるという強い想いがあると感じられる。
社会全体の問題であるが故に、「全面禁止」も正当化される、という考えなのかもしれないが、本当にそうなのだろうか。 その点には勉強不足で疑問が残る。そうした基本的な問題構成に疑問が残るものの、本書には共感できる点も多い。

例えば下記

賽の河原が、全国津々浦々にあり、どんな田舎に行っても、現代の賽の河原が存在する。恐ろしいことである。金の問題よりも、パチンコにより人心が荒廃させられている。それが何よりも恐ろしいのである。(pp94店内は、まさに賽の河原)

本書における、筆者の基本的な問題意識だ。筆者の想いには共感できる。
しかし、下記の記述に代表されるように、極めて偏った認識、あるいは非論理的な表現が目立つ。

・警察によるパチンコ100万台の摘発没収という話も頷ける。それにしても、業界の抵抗がなかったものか気になるところだが、韓国の人たちは、軍隊経験を経ている男が多いので、法律で決まったことには潔く従うそうである。(pp36 抵抗勢力による妨害はなかったのか?)
・子殺し、親殺しはパチンカーに多いと言われている。(pp94 母を殺し、金をとってパチンコ店に行った息子)

記述が、根拠に乏しいのが本書の欠点だ。韓国に渡って多くのインタビューをしたきたようだが、そのときにインタビューした相手が行っていた内容を、鵜呑みにしてそのまま採用している印象がある。法律ができて、韓国からパチンコ(メダルチギ)がなくなった、という事実以外に、信頼を置ける記載が少ない。
筆者は、日本の政治・マスコミの、パチンコ業界(?)との癒着も指摘している。ただし、(一部には具体的な組織や個人を挙げた記述があるが)一般論としての抽象的な記述が多く、やはり真否は本書で確認できない。マスコミ批判の1つが下記だ。

庶民の声に「ちゃんと反応する」ことの大切さを日本のマスコミは忘れている。弱者の苦しみや、悲しみに対して、日本のマスコミは「ちゃんと反応」していない。本来は、マスコミはどこよりも早く、「ちゃんと反応」しなくてはいけない事例の1つがパチンコの問題なのである。(pp133 パチンコ問題に目を瞑るマスコミの責任)

というように、マスコミの感度に関して批判している。確かに、マスコミの社会問題に対する感度を高めることで、社会に貢献できることは増える。その点には共感できる。しかし、本書でおいて、筆者のマスコミ批判の核心は下記だ。

マスコミは、CM収入というお金を重視するあまり、パチンコの被害に目を瞑り、心を疎かにしている。日本の新聞やテレビは良心を失っていると言っても過言ではない。(pp132 パチンコ問題に目を瞑るマスコミの責任)

日本人として、日本で暮らしている以上、このような言論的な文化があるのは理解できるが、それは一般論だ。一般論をもとにマスコミをすることは不毛だ。

このように、本書ではソースが、極めて少ない。インタビューした方の発言や、Wikipedia、新聞記事など、個別的な事例を集めている。データをもとに、説得力のある一般論を展開する努力はしていない。1つ参考になるのは、国を相手取った訴訟の事例紹介である。 金に目がくらんだマスコミ(広告費)と省庁(天下り)、政治家(献金)、という図式を好んで用いているが、なぜ、韓国のマスコミがそうした弊害を乗り越えることができたのか、という問いには、マスコミや政治家の「良識と使命感」によって答えている。
本書は、社会問題としてのパチンコ、という主張で画期的な面もあるが、説得力を欠いた記述で共感できない点が多い。

批判的な書き方をしてしまったが、それは本書の、「主張の方法」に納得できなかったからで、「主張の内容・目的」には共感している。「社会問題としてのパチンコ(と賭博)」という考え方の入り口として、とても参考になったし、筆者のもつ「想い」に共感できる点は多い。特にパチンコをやったことのない私には、初めて知る事実も多かった。本書で学べなかったデータや、社会的な事実については、できる範囲で自ら調べてみよう。


    


拍手[1回]

Twitter「つぶやく」ボタン
まだ読んでいない本がある。
改めて、これから読み直そう。

---------
訃報:林昌二さん83歳=パレスサイドビル設計
 オフィスビル建築の第一人者で、毎日新聞東京本社があるパレスサイドビルなどを設計した建築家の林昌二(はやし・しょうじ)さんが11月30日、東京都内で死去した。83歳。
 東京工大卒。1953年、大手設計会社の日建設計に入社。設計を手掛け、66年に完成したパレスサイドビル(東京都千代田区)は、両端にそびえる2本の円柱(エレベーター棟)と、横200メートルのガラス張り壁面に縦横に走る雨樋(あまどい)やひさしが特徴。機能的でありながら快適な空間を実現させて、モダニズム建築の名作とされている。
 71年にはポーラ五反田ビルで日本建築学会作品賞を受賞。その後も、中野サンプラザ(73年)、新宿NSビル(82年)などの大型建築を次々と設計。限られた予算や時間内で資材などを工夫し、豊かな空間を作り上げる手法は「貧困の美学」と呼ばれた。
 80年に日建設計副社長に就任し、のち名誉顧問。日本建築家協会会長などを歴任した。妻は建築家の故・林雅子さん。
毎日新聞 2011年12月2日 2時30分(最終更新 12月2日 9時20分)http://mainichi.jp/select/person/news/20111202k0000m040124000c.html


----------

「二十二世紀を設計する」「建築に失敗する方法」の2作を高校生のころ読んだ。
気楽だが、厳しい文章にアッという間に魅せられたのを今でもよく覚えている。




   

拍手[0回]

Twitter「つぶやく」ボタン
手帳の価値ってなんだろう、と考えさせられてしまった。
以下は共同通信のニュース。
---
アポロ船長手帳、3千万円 手計算の跡、米で落札
2011.12.2 14:49 [宇宙]1970年に重大事故に見舞われながらも宇宙から無事に帰還したアポロ13号の船長が船内で使った手帳が1日までに、米テキサス州で開かれたオークションで約39万ドル(約3千万円)で落札された。ロイター通信が報じた。手帳は、船長だったジェームズ・ラベルさん(83)本人が出品。事故が発生し地球に引き返すことになった際、宇宙船の位置を計算するために使ったもので、手計算の跡が記されている。落札者は明らかにされていない。競売会社の担当者は、計算が違っていたら帰還の結果も異なっていたかもしれないと説明。「この手帳は宇宙開発や米国の歴史にとって非常に重要なものだ」と語った。(共同)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111202/amr11120214510008-n1.htm


---
言うまでもなく、手帳にはいくつかの「機能」がある。
スケジュール管理、メモ、思考の整理、…...挙げればキリがない。キリはないが、その機能は明確だ。
書くことによって得られることや、書くことの目的自体は比較的簡単に表せる。

だが、手帳の「価値」となると話は別だ。
歴史の史料として「日記帳」が挙げられることもあるし、ダヴィンチの手帳のように学術的な価値を見いだされることだってある。

価値を見いだされる手帳に共通しているのは、書いている本人が思いもよらない格好でクローズアップされる、という点だ。
自分が書いている目的(機能)と、他人からみたときの価値は乖離する。

ラベル船長は、自分の手帳の価値を明確に認識し、換金した、という点で慧眼だな、と思う。
ただその一方で、ここでいう価値は、あくまで他者にとっての、客観的な価値だ。
客観的な価値があると考えるからこそ、多くの人の役に立てるために、世に送り出すことにした、というのは至極もっともな意見に聞こえるが、手帳にかいてある中身・情報に価値があるのなら、手帳の原本を世に出す必要はないのではないか。書籍化したって良い。論文にしたって良い。

ラベル船長個人にとって、この手帳はどれほどの価値があるのだろう。
価値あるものを個人に帰属させずに、広く世の中で共有する、という考え方もあると思う。しかし、それは先述の通り原本をオークションにかける理由にはならない。
船長は、「宇宙に行った、奇跡的な手帳」の商業的な価値を明確に認識しているからこそ、手帳の原本を世に出したのだと思う。それは、手帳の中身・情報を超えた、ものとしての手帳の価値だ。宇宙に行ったことのある手帳なんてそうそうない。

そう考えると、今の自分を表現している手帳というものは、唯一無二のものとしてすごく価値のあるもののように見えてくる。宇宙に行ったことのある手帳が2つと無いように、今の自分を正確に表現している手帳もまた、2つと無いのだ。



 


拍手[1回]

Twitter「つぶやく」ボタン
都市には、多くの人が住んでいる。
人間の体の大きさから考えると、自然界では考えられない密度で生活している。 ある試算によると、人間の体の大きさだと、サイズから予測される密度の、230倍の密度で生活しているようだ(密度)。逆に、同じ密度で生活している生物のサイズは、140g程度とのことで、こうした自然法則への背理を、社会性というあたらしい自然法則で補っているのが人類といえる。

それが故に、都市には、多くの怒りがある。
電車の駅構内、人混みに苛立ったり、非常識な他人の行動が目に付いたりする。
ごみの出し方がいい加減で、住んでいる場所が汚れているのを見てがっかりする。
近所のオーディオが五月蠅い。
隣で家つくってるんだけど、窓が正面に向き合ってて視線が筒抜けだ。
こんな静かな住宅街に、あんな大きいマンションなんてつくるな。

人口の大部分が都市に集まって住んでいる日本では、その分、人の「怒り」も集まることになる。その怒りの原因は、関わりの無い他者であったり、隣人であったり、時には都市で起こる数々の出来事による怒りもあり複雑だ。
原因がこのように多様なのだから、怒りの矛先も当然多様化する。個人であり、企業であり、役所であり、建築であり、都市のインフラであることもあるだろう。
このように、都市では「怒り」が顕在化しうる局面が計り知れないほど多く、駅での暴力事件や、住宅街でのマンション反対運動など、怒りの表現方法も多様だ。 もちろん、顕在化しない(させない)「怒り」の方が圧倒的に多くいが、ここでは、筆者が「怒り三部作」とした書籍を参考に、顕在化している「怒り現象」を通じ、都市における「怒り」について考えてみたい。

「怒り三部作」
1:辛淑玉、「怒りの方法」、2004、岩波新書
2:セネカ 著、茂手木元蔵 訳、「怒りについて」、1980、岩波文庫
3:ダライ・ラマ14世、「ゆるす言葉」、2008、イースト・プレス

■「怒り」の表現方法
「苛立ち」と「怒り」は同じか?
怒りが、明確な利害に基づいている一方、苛立ちとは、本人も明確には原因が分からず、漠然としている。苛立ちが、怒りの原因になり、怒りが、苛立ちを誘発することが充分あり得るなら、両者は相互補完の関係にあるだろう。
苛立ちは、その本人が積極的には表現していない。周りが読み取ったり、本人が感じたりしているだけだ。しかし怒りは、その論理を他人に向けて発信することであり、苛立ちと異なり、表現への意思がある。

では、怒りはどのように表現されているか。 都市で「怒り」が表現されるときは、明確な論理と、それを相手に伝える意思がある。「都市の怒り」には明確な利害が絡んでいるためだ。それが故に、都市での「怒り」の表現は、社会的なメッセージになるのだ。さらに、怒りの表現は、個人でなく集団となることも多い。政治的なものではデモ、生活圏での問題は住民運動のように、集団行動の様相も多様だ。 それは、怒りではなく「主張」である場合も多いだろうが、「主張」を、「怒り」にように表現している場合も多いのではないか。ここで取り上げているのは、「主張」のなかの、「怒り」の側面である。

辛淑玉氏は、著書「怒りの方法」のなかで、怒りを大きく5つのグループに分けている。その5つとは、「噴火型」「イヤミ型」「放火型」「玄関マット型」「問題解決型」だ。ここで、都市の怒りに該当するのは、「自分では怒りを表現せずに、周りを焚きつけて起こらせるパターン」(pp.44)の「放火型」と、「怒りの素をを見つけ、すばやく対処するパターン」(pp.46)の「問題解決型」の2つの怒りの形式だろう。

■「怒り」の背景―都市建築の問題
都市生活で享受できる権利を主張し、それを怒りとして表現する。日常生活での苛立ちから、都市へ怒りを表現するに至るまで、生活は連続している。日常蓄積される怒りが、大きな怒りにつながることも起こりうるのではないか。
ローマ時代の哲学者で、皇帝ネロの補佐人として著名なセネカは、著作「怒りについて」の中で多数の状況を想定した上で、「怒りは束縛されない奔放なものである」とし、また「自分の親しいものの為に怒るのは、深い愛情のしるしではなく、小心のしるしである」とし、怒りを活用した主張の強化や、毒を以て毒を制す考え方に疑義を呈している。セネカの主張の核心は、「怒り」とは本来的に奔放で、理性によって制御できるものではなく、制御できる場合には、恐怖心など別の利害が働いている、と言うもので、いかなる場合も怒りに身を委ねる事を許さない。セネカの言葉に代表されるように、多くの人にとって、怒りが心地よい感情ではない以上、「都市の怒り」を考える場合、都市の側に、人を怒らせる何らかの原因があると考えられる。

その、原因とは何か。
それは多岐に渡るためここでは詳らかには出来ないが、こうした認識は重要だと考える。都市で多様に表現されている「怒り」は、日常生活で蓄積されている怒りの結果なのだ、と。

■「許し」は如何に可能か
「許さない都市」の事例が、アメリカにある。
ゲーテッド・コミュニティだ。各所で紹介されているが、住宅地を塀で囲み、施設警官で守る。都市であるが故に起こりうる「怒り」を最小限にしている。彼らは、一般的な都市を拒絶し、感じうる「怒り」を排除する、「許さない都市」に住んでいる。 一方で、彼らの暮らすコミュニティにも隣人はいる訳で、「怒り」の種はあるはずだし、実際、増築の方法や外壁の色彩についてもめ事があり、退去せざるを得ないところまで追い込まれている事例もある。その意味で、「許さない都市」≒「闘う都市」とも言える。

では、彼らは何を条件に隣人がいること、すなわち居住地が都市であることを許しているのか。それは、隣人のステータスだ。安心できる、同じように裕福な人が住むのであれば、という条件だ。また、建築や道路など、都市形態にも多く口を出し、生活圏を「選んだもの」としている。これは、怒りの拒絶であり、排除だ。 ダライ・ラマ14世は、著書「ゆるす言葉」の中で、「(前略)見知らぬ無数の人々の親切がなかったら、これらのどれひとつとして存在せず、享受することも利用することもできないのです。」とし、排除への批判的な考えを明らかにしている。
都市を、他者の存在を、感謝し、都市への怒りを、「許す」にはどうしたらよいのか。
ここに、技術者・企画者の提案の力量が問われている。
建築・都市に、「技術」の側面から関わる立場の者として、日常生活への「喜び」を感じる事が出来るような具体的な提案を、行っていかなければならない、と、思いを強くした。

そのためにも、現在、社会で表現されている「都市の怒り」に知悉し、それを日常生活のレベルにまでさかのぼって考える。その上で、「許し」が可能な環境をつくるには何が必要なのか考える必要があるだろう。




拍手[1回]

Twitter「つぶやく」ボタン
ブログ内検索
プロフィール
HN:
わぎゅう
性別:
男性
自己紹介:
仏像、恐竜、文房具。振り返れば多趣味。いや、趣味ではなく、真剣なのだ。それが問題。ジャンル問わず展覧会に興味あり。
一級建築士。工学修士。ユーザーの視点から建築・都市を考え企画するのがライフワークです。
https://twitter.com/wagyoo

カレンダー
08 2017/09 10
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新CM
最新TB
バーコード
カウンター
アクセス解析
フリーエリア
忍者ブログ [PR]
"わぎゅう" WROTE ALL ARTICLES.
PRODUCED BY SHINOBI.JP @ SAMURAI FACTORY INC.